顔占いは中国の古典(神異賦{しんいふ})があるのですが、

それを日本語で私の感覚でアレンジしたものを書いていきます。
人相学古典の読解です


 

(18苦樂觀乎手足)

 

「手と足を見ると人生で苦労するか楽をするかを知る事ができます」

 

 

 

苦樂(クラク)とは、「苦しみと楽しみ」という意味である。と、

 

ほとんどの辞書が説明しておりまして、ネットで調べてみましても

 

同じ様に「苦楽とは苦しみと楽しみ、という意味です」という解説しかありません。

 

苦楽という成語の意味としてはそれで正しいと思うのですが

 

顔占い・人相術を解説するためにはもう少し説明が必要だと

 

私は思いますので、あとでこの句の解説でそこを詳しく説明したいと思います。

 

 

觀(カン)とは、「見る」とか「観察する」という意味です、

 

それ以外にも、ながめる、とか見物する、とか、鑑賞するという意味があります。

 

 

乎(コ、オ)とは、助詞であり文末とか句中に置いて前後の言葉の意味を

 

強調する役割があるのですが、読まない場合も多いです。

 

 

手(テ)とは、そのままの意味で「て」なのですが、

 

人によってはこの詩句における意味を誤解されてしまう方も

 

おられるかもしれませんのでしっかりと説明しておこうと思います。

 

この詩句での手とは、「手首から先の手の部分」とか

 

「手相として観たときの手のひら」だけの手という意味ではなくて、

 

一般的には腕に当たる部分も含みます。

 

つまり肘から先の腕の部分とか、肩の付け根から先の二の腕と

 

その先の肘を含めた腕全体を含めて「手」の一言で現わしています。

 

この詩句における手の意味は腕も含むと思って頂きたいのです。

 

 

足(アシ)とは、そのままの意味で「あし」なのですが、

 

こちらも上記の手と同じように解釈して頂きたいのです。

 

つまり足首から先の部分だけを取り上げた意味での足ではなくて

 

膝から下の「ふくらはぎ」や「すね」を含んだ部分とか

 

股関節の付け根から下の「太もも」と膝下の部位も含めた意味での脚です。

 

一般的に言う足全体を指す意味での足と思って頂きたいのです。

 

この詩句における足とは足全体を指しています。

 

 

 

 

というわけで、「苦樂觀乎手足」の詩句をそのまま直訳いたしますと、

 

「苦樂は手足で觀る」となります。

 

 

神異賦をただ和訳するだけであればこの訳でいいと思うのですが、

 

一般の方達には、これでは何を言っているのか意味がわからないと思うので

 

顔占い・人相術の知識で言葉を補いますと次のような感じの文章になります、

 

「人生において苦労して生きるのか楽をして生きるのかは

 

 その人の手と足の状態や身体つきとのバランスを観れば知る事ができます」

 

という感じの訳文に私はしました。

 

 

この訳でだいたいの意味は分かって頂けると思うのですが

 

顔占い・人相術をご存知ない方達にはさらに詳しく説明をしなければ

 

実用することは難しいと思いますし、

 

また、この詩句の意味だけにとらわれて人を判断してしまうと

 

間違った判断をしてしまいますので

 

その他の人相術の知識や技術を加えて

 

この詩句が言おうとしていることをさらに詳しく解説していきたいと思います。

 

 

 

 

それではまず、先ほど述べた「苦樂」の解釈から始めていきます。

 

 

先ほど苦樂は辞書の説明では「苦しみと楽しみ」という意味になると

 

説明しましたが、

 

この詩句における意味としてはその解釈は正確ではなくて

 

ここでは「苦しむことと、楽(らく)をすること」と解釈した方が適切であると

 

私は思っています。

 

 

楽(たの)しむこと、ではなくて、「らくをすること」という意味の方で取ります。

 

楽ちんな仕事、とか、気楽な状況、という意味での「らく」です

 

その方が意味が通ると思うのです。

 

 

 

「たのしむ」の意味の場合は、たのしい、愉快である、喜んでいる状態、

 

好きである、笑顔でいられる状態、おもしろい状況にある、などの意味となりますが、

 

 

「楽(らく)をすること」、の意味の場合は、心が穏やかな状態、とか、

 

容易に物事が進む、何事もたやすい状況、それこそ楽な様子、

 

安らかな状態や心境、心が満たされている状況、などの意味になります。

 

 

 

この詩句の解釈としては「たのしむ」よりも「らくをすること」の意味の方が

 

実際と合っているように思うのです。

 

 

この詩句に合致する多くの事例を見ていけば人生で楽しいことが多い人にも

 

出会うかもしれませんが、そういう人の場合は手足の状態だけではなくて

 

顔全体の状態とか身体全体の状態や身にまとっている雰囲気が

 

抜群に良い状態になっているはずで、

 

普通一般の人相の人とは見た感じも雰囲気も違うはずなのです。

 

 

 

余談ですが、本当に運勢が良い人とか、才能、能力や才気が人並み以上の人は

 

見た感じや雰囲気や存在感がハッキリと違っていて、際立って見えるのです。

 

身体の周りにある空気からクッキリと浮かび上がっているように見えるのです

 

昔からよく言われている言葉ですが「その人だけ光って見える」という表現の

 

しかたがとてもあっているように思えるものです。

 

 

 

解説に戻ります、今回の詩句は手足の状態から相手の人生の状態を

 

判断することを述べている内容であり、

 

詩句も短くて私はこの詩句はこれのみで主動的な判断に使うものではなくて

 

他の主たる人相の暗示を支持するための支持材料であろうと思うのです。

 

そのぐらいの使い方があっていると私は思います。

 

 

 

ですのでこの詩句の苦樂の意味は、苦しむことと、らくをすること、というふうに

 

とらえて頂きたいと思います。

 

 

 

では次の解釈に進みます

 

この詩句は「人生で苦労をするか楽をするかは手足を観ればわかります」と

 

述べています。

 

それでは、手足がどのような状態になっていれば人生で苦労するのか、

 

それとも楽に生きていけると判断できるのか、について説明いたします。

 

 

 

一番のポイントは、手足と胴体との大きさの釣り合い、バランスです。

 

手足と胴体と頭との大きさのつり合いバランスが取れていて、

 

肉付きも大きさも太さも厚みも程よい形で、

 

伸びやかですっきりした感じが見た目に感じられる状態が良い状態と言えます。

 

そのように見える形ならば、それだけで運勢が良い状態の人と言えます。

 

 

 

それとは逆に手足と胴体頭とのつり合いが取れていなくて

 

胴体に比べて手足が大きすぎたり、小さすぎたり、長すぎたり、短すぎたりして

 

バランスが取れていないような感じに観える形であると

 

運勢が良くない状態だという判断をすることになります。

 

 

手足の大小や長短以外にも、肉が削げ落ちて骨が浮いているように見えていたり

 

異常に肉や脂肪が付いていてブヨブヨしているとか、

 

思いもよらないところに筋肉がついていて違和感を感じてしまうとか

 

胴体とのバランスが取れていないように見える形であれば

 

それらはすべて運勢の良くない暗示となります。

 

つまり人生で苦労する暗示があるということになります。

 

 

 

ただ、この手足の形のバランスを観る判断については注意が必要で

 

両親からつながる家系的な身体特徴の遺伝というだけの場合もあるので

 

あくまで全体の判断のための支持材料のひとつに過ぎないと

 

強く認識しておいて下さい。

 

 

それはどういうことかと言うと両親からの遺伝で生まれつき手足が

 

長めだったり短めだったりするという特徴がどうしても出る場合もあるということです。

 

家系の遺伝によって生まれる人がみんなそういう手足になるのならば

 

それで運勢を判断するというのは判断要素としてはとても弱いということです。

 

なのでこれは支持材料の一つにしかならないのです。

 

 

 

そして手足の大きさと肉付きやスッキリすらりとした形も大事なのですが、

 

手足から漂う雰囲気や印象も大事な判断要素になります。

 

 

近づいて相手をよく観たときに手足から苦労を感じさせるような雰囲気が

 

感じられるかどうかも大事な判断のポイントになります。

 

手足を観たときに「ああ、苦労されたのだな、」と一目でわかるぐらい

 

苦労したという雰囲気が手足に現れている方もなかにはおられます。

 

ある程度の年配の方の肘から下の腕から手首と手の甲と指を観たときに

 

一瞬でそれまでの人生での御苦労がこちらに伝わってくることもあるからです。

 

 

またそれほど人生経験を積み重ねたわけではないはずの若い人でも

 

手足の感じや雰囲気に苦労しているような感じが現れている人もいるのです。

 

若いのにそういう雰囲気が手足に現れているというのは、

 

これからそういった苦労をするかもしれないという暗示と取ることができるのです。

 

 

逆に手足の雰囲気や印象がとても元気で活力のあふれる感じとか、

 

ゆったりとして余裕があるような感じとか

 

穏やかでさっぱりとした雰囲気が感じられるのならば

 

手足の雰囲気や印象という点では運勢が良いという暗示と取ることができます。

 

 

 

ここまで説明してきたように手足と胴体との大きさや長さのつり合いバランスとか、

 

手足を観たときに感じられる雰囲気や感じで判断するのですが

 

これらはあくまで手足という一部分の状態による判断にすぎません。

 

 

正しく顔占い人相術的に判断するためには顔全体や身体全体の判断を

 

いくつも積み重ねて、それらを併せて判断するようにしなければなりません。

 

手足の状態は全体の運勢判断のための支持材料の一つというだけなのです。

 

 

この詩句の言うとおり、手足の状態で人生で苦労するのか楽に生きられるかの

 

判断の手がかりになる情報の断片は知る事ができますが

 

それはあくまで支持材料の一つに過ぎないのでそれを絶対視しないで下さい。

 

支持材料の一つだけを観て運勢を決めつけるような事はしないで下さい。

 

仮に手足が貧相、貧弱に見えても

 

顔の骨格雰囲気や身体の雰囲気存在感がすごく良くて

 

眼光が素晴らしく抜群であれば、運勢の判断は逆転します。

 

顔占い人相術は全体を観ることを心がけるようにして頂きたいと思います。

 

この詩句の解説を終わります。

 

 

 

苦樂   ここでは苦しみと、らくに生きること、の意味

 

觀    見ること

 

乎    助詞、語気を現す

 

手足  て、と、あし、そのものの事

 

(18苦樂觀乎手足)

 

 

 

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