私が 雑草を好きな理由?
  

それは、神様の化身だから




変身では、ない

神は、変身はしない

読んで字の如く

「 神の化身」





雑草は、神様の化身なの




ほら 街を見てごらん

至るところや場所に雑草がいる








ほら 雑草を見てごらん

それは、人目には見えない場所を見てごらん


大切な物は、目に見えない


一つの カタチの現れ





ここから先は、「 神の領域」

小林正観さんの著書の中の言葉



私が、この世で一番感銘を受けた言葉

その先は、人が足を踏み入れてはいけない場所




「ここから、先は神の領域」


人は正しさで学ぶよりも
まず大切なのは、危険を知る事

絶対に大丈夫よりも、危険を知った上で

大丈夫だと思う事

それが、例え逃げる道でも
生きる為に、前に繋がる道になる





人は、自分の存在価値を見失うと
思考が、正常ではなくなる


正常な状態でなくなる


人間だから、時として
そのような状態に陥いる時がある
 

何かあった時
自分を守る為に「逃げて下さい」

これってね

どの方向に逃げていいか
分からない人には

方向感覚を、見失った人には
ある意味、無責任な言葉にも繋がるの

生きる為に、逃げる人もいるし
死ぬ為に、逃げる人もいる




死ぬぐらいなら「 逃げて下さい」

この声が、聞こえても
心が、もう感じる事を

これ以上 拒否する


 

その前に

逃げる前に、必要な事


それは、正常な状態の時に
自分の価値を 自分が生きる存在価値を

自分の中で、正しく認識しておき
人の感覚でなく、自分の感覚で
自分の内に、腑に落としておく事


そうでないと、人が思考が
正常に保てなくなった時


人が、足を踏み入れたら行けない場所に
人が、足を踏み入れてしまう


私なりに見つけた事

存在と存在価値は、物語にナンバーの
続きで書いていく





今は、雑草


雑草は、神様の化身なのだと

この世に、人が足を踏み入れるない場所にある物


人が、足を踏み入れない場所に

必ず存在し、そこにある物


逆目線から考えた事 ある人

この世の中に、お見えになるだろうか?








それは、雑草なのだと




人が、リアルに足を踏み入れない場所に
必ず あるもの


それは、雑草


「この奥は、人が入ったら危ないよ」
「人間が、足を踏み入れたらいけないよ」


整地されている場所は、人が足を踏み入れる事が出来る

人が整地した場所

それは、神の 聖地



聖地と、聖地領域はまた違う


神の聖地領域はまた違う場所にある

「ここから、先は神の領域」
 
それは、人間が足を踏み入れたらいけない世界




この感覚を、神様は逆目線で

それを、自ずと神様は
人に、思し召す為に

自ら 雑草に化身なりし
人が、こう教えを賜わうのだと
  

「  ここから、先に人間は入ったらいけない」


ソナタ達は、人間なのだと


人が、足を踏み入れない場所に育つ雑草



それは、人が見た事がない雑草
人が足を踏み入れない場所の雑草は


街中に育つ 雑草とは
様 姿 カタチ 様相 
全て 異なる


気味が悪い おぞましさ
蔓が巻きつき
その姿は、美しいより怖さを超えた
恐怖心さえ感じる

街中で見る可愛い雑草はいない


人が足を踏み入れない場所にある
雑草は、人は知らない


自分の背より高い雑草が、覆い茂る場所の手前

必ず人は、躊躇して立ち止まる





ここから、入ったらいけません、






この感覚を教えてくれる為

逆の姿 なりし

雑草は神の化身となり、存在す






人が住む街中の雑草は
きちんと、整備される為

人の安全のために、抜かれ整備される

人が足を踏み入れる場所は、雑草があると
かえって危険になる










そして、やはり昔の人の感覚は正しい
それを、引き継ぐ遺伝子を持つ
日本人の感覚も正しい

やはり 人間

間の人と書くのが、人間


人が、住む前に、
その土地の上に何かを建てる前は

その土地を触る前に地鎮祭が、行われる


その土地に見える神様に
きちんと、ご挨拶をした上で
人間が、その土地に触れる事をする


なぜなら?

土地に触り 祟りがある事を
やはり 人は感覚で知っているから


人が足をつける 地の下を守る神様に
きちんと、挨拶をして礼を尽くして
土地を清めてから

土地に触れる事は

やはり 大切で大事な事なのだと



これを、きちんと教えられた人はね


街中に、ゴミを捨てたり
タバコのポイ捨てをしない


街の至るところに、神様の化身がいる



だから、私は雑草が好き




私のこの感覚は間違えてはいない