「 自分なんか、生きる存在価値すらない」



人は、自分自身の存在の虚しさを超えた時



自分自身の存在価値が、分からなくなり


そして見失なう






生きていたら



それは、今でなくても


子どもから大人に成長するまでの間でも


誰でも一度ぐらいは


自分の事を、存在価値がない人間だと


自分ではない

誰かのセイで、思った事ぐらいは

あるのではないでしょうか?




そして、生きていたら

逆もありし 自分もその誰かに思われる

存在になるコトもある中で






だけど、違う


あえて言わせてもらえば


だけど、違う



これを自分で、それなりにでも

きちんと自覚する人は


その手前迄は、言っても


人に、「私は生きている価値さえない人間なんだ」


と、感じさせるまでの

そこまでの事を、人と人とのボーダーを


超えた事は、


身内でも、他人でも

人には言わない



だけど 身内なら、まだしも

身内なら、まだしもよ





その 誰かのセイ


他人でも、身内だからの域を超え

まず 誰よりも一番に、全て人のセイにする人



そして、それをなぜかあなたばかりのセイにする人


あなたの周りには、いませんか?








例えばね


「おいっ どの口が、物 申すんだ」



これは、一つの例え




歯は一日にして成らず

虫歯も一日にして成らず

歯周疾患も一日にして成らず



私は、仕事に行くから

おばあちゃんに、預けたら

子どもが虫歯になってしまいました

おばあちゃんのセイで・・


と、豪語するお母さん


「それは、違いますよ お母さん」





もっと タチが悪いカタチ


三歳の子供に


「 あーあ 歯磨きしないし

甘いものばっか 食べてるから

虫歯になっちゃったね」


と、全て 子どものセイにする


その言葉に反論する語彙力を

まだ持たない子どもは

自分のセイだと、真に受ける



治療を受ける 麻酔を打たれ

麻酔が、必要になるほどの虫歯

子どもは、死んじゃうと思うぐらい

泣くし暴れるし、だから抑制されるし

痛いし怖い



甘い物を食べた 歯磨きしない

子どものセイ


完全に、親側の無自覚なる発言


「 どの口が、物申すんだ」


開いた口が塞がらない


一つの 例え









全て 人のセイにする人って


自分の幸せは、自慢するけど

自分の不幸は、自分にとって不利益になる事は

全て 人のセイだと豪語する人




だけど、違うの


この人が、豪語するのを

知らない人が、真に受けるのは


ある意味 仕方がない


それもあるけど だけど違うの



本当に、傷つくのは


私を知る人が

私という存在を、きちんと知る人が


その人が、豪語している話の中に

出て来た私の話を真に受けて信じる


「  私のセイで」を、真に受けてる




「今まで、この人は私の何を見ていたのだろうか?」


「 私は、一体 今まで何をしてきたのだろうか?」


「 この人は、今まで私の何を見てきたのだろうか?」


自分自身が、よく分からなくなる


やはり、私が間違えているのだろうか?


こんな私だから


やはり 私が間違えているのか?







この時に



自分自身の存在の虚しさを感じ

自分の存在価値が分からなくなる



カタチの一つだと






そのカタチの 一つになった事


生きていたら、一度ぐらいはなった時


「 もう 全部イヤだ

私 もう死にたい」と思ってしまった事




生きていたら、一度ぐらい

感じたり思ったりした事



そこに、ここに自分の存在価値を見失う



あるのでは、ないでしょうか?