
徳島市国府町矢野神山 気延山山麓にある天石門別八倉比売神社
大杉氏はこの神社の事を次のようにのべています。
天石門別八倉比売神社は延喜式官幣大社という最高の神社でした。この神社の近くに国分
寺があり、また、阿波の国府と国分尼寺もあったのですが、これらは、この天石門別八倉比
売神社を中心にした配置になっています。昔は天皇の使者が定期的に参詣していたと伝えら
れ、勅使道と呼ばれる道も残っています。
この神社の祭神は大日孁命、すなわち天照大神であり、拝殿の裏側にある大きな古墳が
ご神体とされています。
この神社には「天石門別八倉比賣大神御本記」(略して、「御本記」と呼ぶ)と記された
記録が伝えられていて、それには、大日孁命の葬儀の模様や、古墳に金印を埋めたことなども
記されています。
また、最初は気延山の頂上に葬られていたのですが、小治田(推古)御字元(五九三)年に
現在地へ移したことが記され、前方後円墳と拝殿の跡が残っています。
現在の古墳の上には五角形の石壇が造られていますが、
このような古墳は他には無く、この古墳が特別の古墳であることを物語っています。
また、気延山の中腹に、神社が使用していた五角形の井戸がありますが、
五角形は何を意味するのか、謎になっています。
なお、邪馬台国の卑伽呼と、高天原の天照大神とは同一人物であることが判明していますので、
天石門別八倉比売神社の御神体は、卑弥呼の現在の塚ということになります。気延山の頂上に残っ
ている大きな前方後円墳の跡は、魏志倭人伝に記されている通り、径百余歩あります。
なお、卑弥呼(天照大神)が気延山の頂上へ葬られた理由は、高根(卑弥呼の都跡)-神山
町(大宜都比売の国) ·剣山(高天原の中心) ·高越山(蓬萊山)-城山(海神の宮)-淡路島
(伊邪那岐命が葬られている)など、卑弥呼の見たい所がみな見える場所だからです。
以上のように語っています。
それでは気延山を俯瞰してみてみましょう。

国土地理院 globeより 以下同様
徳島の市街地は当時 海の底と考えられています。
気延山の付近は国府跡で入江に面していて海の玄関口でした。
国府町という名がそれを明確に示しています。
遠くに剣山が鎮座しその尾根伝いに神山地方があります。
神山地区が卑弥呼の都跡と比定しています。
名前も神山ですからドンピシャリ。
吉野川が西へと続き肥沃な土地と分かります。

気延山全景
標高200m程度の低い山です。北側には平野が続き
南側は剣山 神山町へと向かう分岐となっています。
史跡公園があり弥生時代の古墳が密集する特異な場所で
徳島県の古墳のメッカです。
この史跡公園の近くに神社が鎮座しています。
気延山は矢野神山とも呼ばれ卑弥呼の御陵を暗示しています。
山頂には前方後円墳があり卑弥呼の墓跡と大杉氏は比定。
ちょうど百余歩の大きさで魏志倭人伝と矛盾しません。
後年 山頂から御陵が神社付近に移されたと古文書に残されていると
いいます。

五角形の形をした塚 卑弥呼の御陵


気野辺山には約200の古墳跡があり密集しているという。

詳しくは神社の略記をご覧ください。

東から俯瞰した矢野神山
大杉氏は卑弥呼の見たい場所がすべて山頂から見える場所という。
剣山をはじめ神山 高越山などが丁度見える。
現在は変電所があり高圧電線が山に多数架かっている。
何者かがこの山を管理していますよと暗示しているようです。
次回は翌日に見学した徳島県神山町神領にある卑弥呼の都跡を
ご案内します。必見です。