「信仰」を持つ人は幸せです。

だがしかし、利己的な排他主義に「信仰」を「利用」するのは、
明らかな間違いであり、
それは「信仰」とは呼べません。

あまねく「信仰」というものは、
言葉、美術、音楽などの「人間の五感に訴えるもの」を介して、
信仰者が「第六感」で「幸せな気持ち」を
受容するものでなくてはいけないと思います。

宮沢賢治が仏教徒であり、
宗派を変えながらも、
晩年は法華経に帰依していたことは有名ですね。
皆さんは『雨ニモマケズ』を詩文だと思っていますか?
詩文だと誰に教わりましたか?
教科書で教わったから、
詩文だと思い込んでいませんか?

賢治が『雨ニモマケズ』を書いた黒革の手帳には、続きがあります。
「そういう人に私はなりたい」の後に、
「南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 
南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩」
と大きな文字で、書きなぐっているのです。
これは詩文でしょうか?
違います。
賢治の「咆哮」「絶叫」です。
「信仰」を持っていたからこそ
賢治は「救済」されたと俺は思います。
いや、救済はされていないかもしれませんが、
「題目」を絶叫することによって、
「穏やかさ」を獲得したのではないでしょうか?

俺は「信仰」というものを、
今の今まで持ち合わせていません。
これからも持つことはないと思います。

ですから、俺は「信仰」という意味合いで
「不幸」だと言えます。

しかし、俺は文章を書いたり、
書籍を編集したりする仕事を生業にしています。
したがって、「信仰を望む人が幸せになろうとすること」の
お手伝いはできると思います。

つまり「信仰」を望む人だけが発することができる
「咆哮」や「絶叫」を後世に遺すことはできるだろうし、
そういうことをせねばならないと考えています。

そうしたことに関われるのは、
俺にとって「不幸」ではなく、
とても「幸せなこと」だと信じているのです。


Christopher Duffley Sings The Ave Maria