本日の会見で、
ちょこっと触れて、
いろいろ考えたので書く。
「着てはもらえぬセーター」
について、
もう少し掘り下げたい。
毛糸の無駄であると書いたが、
同時にエネルギーも無駄である。
しかし、すでに、
毛糸はたんまりと買い込み、
編みかけである。
ここからが問題なのである、日本人。
「女心の未練」で済ませてしまう。
というか、
己の衝動性がなんなのかすらわからず、
「でしょう」と開き直る始末。
どうせ、おもい人には着てもらえないのだ。
そこで、何故、
「じゃあ、ソマリアの子供たちに送ろう」
と、おもい至らぬのか?
セーターを編む技術と
毛糸をムダ無駄づかいできる資力があるなら、
じゃんじゃんセーターを編み、
世界の子供たちに送り届けようとはおもわないのか?
そんなことだから、
男にも逃げられるのである。
このようなメンタリティでは、
世界からは相手にされない。
よくよく思い返せば、
「演歌」のほとんどは、
男と女の色恋しか歌っていない。
それも、かなりセックス寄りである。
いい大人が真剣に歌ったり聴いたりする内容ではない。
差別に対してものを言ったり、
戦争と平和について考えたり、
環境破壊を憂いたり、
少子化問題にメスをいれたり、
一切しない演歌。
そもそも、
「演歌」の始まりは、
自由民権運動が弾圧されたとき、
「演説」をメロディに乗せて、
大衆アピールしたものである、
と聞く。
すなわち、何か、
社会的に訴えたいモチーフやテーマがあってこその
「ルーツ演歌」なのである。
が、しかし、
現今の演歌は
あくまでも、
セックス寄りの色恋しか歌わない。
こんなもの毎日聴いているジジイどもが、
国際社会で「何か」が出来るとは到底思えないのである。