結論を言う。
「自分」というものは、
「概念」であり、
そのようなものは実存しない。
人間の進化の過程で、
大脳が異常発達して、
動物としては、
珍しく
「言語」を獲得した。
これは、人間だけに与えられた特殊能力ではなく、
テナガザルの手が長いのと同じように、
其々の動植物の個性である。
しかし、そこで
阿呆な人間種が、
あたかも「特権」の如く勘違いをいたところから、
「悲劇」は始まってしまったのである。
さて、
「自分」を認識するためには、
それ相応の
「言語能力」が必要となる。
であるかして、学問のないもの、
語彙のないもの、バカには、
土台無理なのだが、
そういう人間ほど、
「自分」を強く意識したがる傾向がある。
さらに
「言語」というものは、
非常に曖昧で、
「ずばり」
を指し示すことが出来ない。
なので、「指し示した」ものは、
ほとんどの場合、
素っ頓狂なことばかりである。
ゆえに「錯覚」「錯誤」が生じやすい。
「錯覚」に基づいた認識で、
スキャンされた「自分」は
「錯覚」である。
デカルトは
「我思うゆえに我あり」
と言った。
これは「相対認識」のなかでしか、
「自分」を発見できないという、
素晴らしい達観であるが、
その思考軸となる
「我」が
相当疑わしきものである以上、
「我」などどこにもない。
「自分」などはもとより、
存在しないのであるからして、
脂汗をかいて考えて
みたところで詮無きことなのである。
今、ここにあるのは、肉体のみなのだ。
路傍に咲くタンポポたちよ、
無駄なことは一切やめるがよい。