岡本真夜さんというと、「tomorrow」が有名ですね。
涙の数だけ強くなれるよ~♪っていう。

でも、私は岡本真夜さんなら「泣けちゃうほどせつないけど」と、「smile」「おやすみダーリン」が好きです。「泣けちゃうほど~」はアニメ・キューティーハニーFのエンディングでした。

残念なことに、元バイト先とか学校の友達に岡本真夜が好きって言っても分かってもらえないですね。これがいわゆるジェネレーションギャップですか。ぎりぎり「tomorrow」なら通じるという。

昼寝  昼寝  昼寝

多摩テックの閉園とか、ほかにも寂しくなるようなニュースを見て、ぼんやりいろいろ考えます。
多摩テックが閉園するとき、いろんな人が泣いてたね。

寂しいのかな。悲しいのかな。でも、なんで泣くのかな。
思い出の場所がなくなるから?もうそこで遊べなくなるから?

何年か前、私の地元でもある遊園地が閉園しました。
その時、私は泣かなかった。なんで泣かなかったんだろう。
最終日にいかなかったし、どんどん寂れる一方だから仕方がないのかなって思ってた。

でも、他の遊園地に行って、その遊園地と同じようなアトラクションとか乗るとすごく寂しくなった。
そして、多摩テックの閉園のニュースを見ると、あぁその遊園地もこうやって閉園したのかなって自然と考えていた。
子どもの頃から遊びにいった遊園地に、せめてしっかりお別れをすれば良かったなと思った。
私は別れるという行為にしっかり向き合うことが、ずっと苦手でいる。休んだり、その場にいないようにしたり逃げてばかり。

あれからどんどん月日は流れて、あの場所に遊園地があったとは思えないほど変わった。
向ケ丘遊園とか、よく駅名とかに遊園地の名前が残っていたりするけど、それも消えた。
そんな場所があったのかなって思うようになる。

サーカス  サーカス  サーカス

遊園地もまぁある意味「もの」かもしれなくて、「もの」は所詮「もの」だよって言う人もいるけれど。

そんな、所詮「もの」であっても、そばにあって同じような時間を過ごしてきたことは変わらないと思う。
遊園地だって私たちを楽しませてくれる存在であったし、一人の友達のような感覚となっていたのかもしれないと思う(良く分からないけど)

それは別に遊園地じゃなくても、家や車だったりタンスだったり、シャーペンだったり、自分と時間を共有して過ごしたことに変わりはない。
だから、「もの」と別れることに対しても寂しいと思うし、悲しいと思う。
でも、「もの」は結局人ではないわけで、「もの」はやっぱり「もの」であるので、どうして涙を流すほど別れを惜しむのかよく分からない。その「もの」自体が大切なのではなくて、思い出を「もの」に依存しているから悲しいのかもしれないとも思えてくる。

こんな訳わからないことを考えるのは、自分が普段はあまり「もの」を大切に出来ていないからかもしれない。大切にしていたら、それがあたりまえでこんなこと考えないのではないかと思う。

以前、ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんが「もったいない」を流行らせたけれど、日本人にもったいない精神が今現在あるのかといえば、あると断言することはできないと思う。
「もったいない」という言葉があるだけかもしれない。

というより、「もの」を「もったいない」という時点で、人は自分たちを「もの」よりも優位に考えているだろうし、それはどうなんだろうと、考えるところが私には少しあるようなないような‥(?)

話がだいぶ飛躍しすぎているけれど、
(遊園地の閉園、「もの」がもったいないとかの話は別の話なのに)

とりあえず、そんなニュースを見て寂しく思ったというだけの感想でした。
10月の自己満足日記も自分の妄想世界からスタートします。