こんにちは
観光客数が世界第6位のトルコ
トルコ観光の際に
知っておかなければ、楽しさが半減してしまう
「オスマン帝国史」
今回は観光やグルメから離れ
現トルコ共和国の原点ともなっている
オスマン帝国・皇帝(スルタン)の歴史③をご紹介していきます
オスマン帝国は
1299年にオスマン1世が樹立し
1922年に滅亡するまで
623年も続いた大帝国です
その中でも功績を残し
皆さまにぜひ知っていただきたい皇帝9人
ピックアップしてご紹介して参ります
今回は3回に分けていますので
③後半4人
日本人大臣も併せてご紹介していきます
皇帝の名前・下の( ~ )年号は在位した年号です
アフメット1世
(1.Ahmet/1603~1617年)
第14代皇帝
13代皇帝メフメット3世の息子
1603年
38歳で死去した父の後を継ぎ
即位しました
語学が堪能で、詩を好み
剣術・乗馬なども得意としていました
温厚な性格で、精神病を患っていた弟の処刑にも
反対したほどです
1617年
当時流行していたチフス菌が原因で
27歳という若さで亡くなりました
若くして天国へ行ってしまったアフメット1世ですが
観光地の必須
イスタンブールにある通称ブルーモスク
スルタンアフメット・モスクを後世に残しています
1609年から
7年の歳月をかけて建設されました
世界遺産に登録、歴史的建造物としても有名で
「世界で最も美しいモスク」と評価されているほどです
実はこのモスク・・面白い生い立ちがあるのです
アフメット1世は
「金色のミナレットのモスク」にしたかったのです
「アルトゥン(=金色)のミナレットを創れ」と命令したところ
「アルトゥ(=数字の6)のミナレットを創れ」と聞き間違えられて
6本のミナレットがあるモスク
となってしまったのです
6本のミナレットは聖地メッカのみでしたので
アフメット1世はこれを好く思わず
メッカに7本目のミナレットを創らせました
アフメット1世は
性格こそ温厚で、領土拡大には貢献しませんでしたが
イスタンブールで今もなお愛されているモスクを創った偉人です
その偉大さは
イスタンブール最大の観光地区「スルタン・アフメット」地区の
名前にも象徴されています
キョセム(Kosem)
アフメット1世の妻
ギリシア人教父の娘だったのですが
幼くして孤児になり、ボスニアの県知事宮殿に送られ
その後イスタンブール宮殿に送られました
この時点からキョセムは
皇帝の歴史➁でご紹介したスレイマン1世の妻
フーレム以上になる夢をもっていたのです
皇帝の歴史➁~女帝フーレム~
その夢を叶える為には何でもした、と言われており
僅か15歳でアフメット1世の妻となりました
フーレム同様、ドラマ化されているほどの女帝キョセムです
アフメット1世の死後
オスマン帝国の執政権を、裏で40年間も握っており
「オスマン帝国で最も権力を持っていた女性」
息子2人を、さらに孫1人を皇帝にしたという史上初の権力者です
後にご紹介するムラット4世、その弟イブラヒムと
イブラヒムの子メフメット4世が皇帝になっています
女の世界ハーレムの
恐怖ともいえる戦争に打ち勝った代表者なのです
しかし・・
その共謀さと独占力は目を見張るものがあり
1651年9月2日
オスマン帝国史上初
暗殺された皇帝の妻としてこの世を去りました
上でご紹介した
アフメット1世の横(通称;ブルーモスク)で
親族と一緒に眠っています
ムラット4世
(4.Murat/1623~1640年)
第17代皇帝
アフメット1世&キョセム・スルタンの息子
アフメット1世(第14代皇帝)の僅か6年後に
ムラット4世は即位しました
この6年間に2人の皇帝(第15、16代皇帝)が
即位しましたが、継続不十分な皇帝でした
わずか11歳だったため、未成年の間は
実質の政権は母キョセムが握っていました
即位した直後、帝国は無政府状態に陥り
サファヴィー帝国による侵攻でイラクを奪われてしまいました
実質では政権を握っていた母キョセムも
侵攻に対しては対応ができなかったのです
その後、イラクの地域は奪われたままでしたが
成長したムラット4世は
母キョセムには従わずに
自力で国政を取り戻そうとしました
ムラット4世は
遠征を何度も繰り返し
10年以上の歳月をかけてイラクの争奪に成功
ムラット4世の最大なる功績です
イラクの土地がオスマン帝国に戻ってきた後
次はヴェネツィア支配の計画を立てていましたが
遠征を実行する前に、わずか27歳にして病死
父アフメット1世同様、短い人生でしたが
断固とした態度で
財政や帝国の権威の再建に取り組み
功績を残した偉大な皇帝でした
1634年8月5日
チャイハネでタバコが原因となる火事があり
町の5分の1が消滅したことからタバコを禁止
併せて、酒は決まった場所でしか飲めなかったのも一切禁止
併せて、夜の外出も禁止
とした規律に厳しい皇帝で
規律を破った人は否応なしに逮捕
自分にも他人にも厳しい皇帝だったのです
狩猟を趣味とする皇帝
幽閉されていた皇帝
遠征を試みるも大敗北してしまった皇帝
などが続き
目立った皇帝は現れませんでした
1700年代は主にロシアとの戦争が多く
計4回もの露土戦争(ロシア・トルコ戦争)がありましたが
1710年に1度勝利
そのほかの戦争には負けてしまい
約350年間
領土拡大どころか・・
オスマン帝国に静けさが見え始めていました
1800年代からは近代化が始まり
西洋のスタイルや政策に近づくようになっていきました
続いてご紹介する皇帝は1800年代の皇帝です
アブドゥル・メジト1世
(1.Abdul Mecid/1839~1861年)
第31代皇帝
1839年
第二次エジプト・トルコ戦争の最中
父の跡を継いで即位しました
改革に対する熱意が強く
行政・軍事・文化・財政・司法・教育などの
タンジマート(改革)を積極的に取り組んだ皇帝です
1843年
宮廷に仕える建築家に
当時使われていた時代遅れの宮殿を取り壊し
西洋スタイルを取り入れた
近代的な宮殿を建てるよう命じました
ドルマバフチェ宮殿と呼ばれた新しい建物は
1922年までオスマン帝国の王宮として利用され
現在でも宮殿は行列となる見学スポットとなっているほどです
1853年
事件は起きます
ロシアがオスマン帝国に再度戦争を仕掛けてきました
ロシアとの戦争は歴史上で10回目
露土戦争(ロシア・トルコ戦争)
クリミア戦争の勃発です
クリミア戦争では
最初はロシアの勢力に押され、連敗していましたが
ロシアの進出を恐れたイギリス・フランスも手を貸し
3年後には見事、戦争に勝利
その後
パリ条約を結んだことによって
オスマン帝国の国際的地位が高まっていくと共に
イスラム教の教えから宗教の平等を掲げ
オスマン帝国内のキリスト教徒に対して
寛容な政策を打ち出しましたが
反面イスラム教徒の不満も買い
暴動が勃発したこともありました
1861年
弟(ムラット5世)が即位することで
アブドゥル・メジトの治世は無事に終わりを告げました
国際的に活動し
改革に力を注いだアブドゥル・メジト1世
近代化において重大な役割を果たしました
その最もなる証として
「ドルマパフチェ宮殿」が残っています
アブドゥル・ハミット2世
(2.Abdul Hamit/1876-1909年)
第34代皇帝
アブドゥル・メジト1世の息子
1876年
先代の皇帝がクーデターで廃され
その後を継いだ兄も精神疾患ですぐに退位
アブドゥル・ハミット2世が、新皇帝として即位しました
人物の特徴は
政治の天才、賢さ、先をよむ鋭さ
家族を呼ぶ時も敬称をつける上品さ
国民的にはトルコ人、宗教的にはイスラム教の心を100%もっており
差別なく政治と国を動かした人物
併せて
教えに基づき「死刑」を執行したことがない珍しい皇帝
執行書面に判を押した後に、死刑執行となっていましたが
「神が生かす限り、それをしない」
と断言し、判を押さず左遷にしたのです
産業革命で伸びていくヨーロッパに背を向けるのではなく
習得等の受け入れ体制を強く支持した人物
(例えば、多くの留学生をヨーロッパに送り
欧米人の発展に追いていく、など)
僅か11歳の頃
母を失ったことからプライベートの使い方を
多く見出し、音楽や木工など幅広い趣味をもっていました
王子だった時代からその趣味を活かし
投資家としても働き、皇帝になった時点では10万金貨を
所持していたという珍しい皇帝でもあります
「平等」を主としたアブドゥル・ハミット2世は
今まで放置されていた、小さな機関にも目を配り
貧しい国民を宮殿会食に招待したり
歴代皇帝が使っていたモスクを使わず
一般国民と同じモスクで礼拝をする
など、国民と隣接していき
驚くほどの短期間で、多くの好意を得ていきました
宮廷内の食事、生活はじめ
特別扱いや派手なことを最も嫌う人物でした
現在に至ってもドラマ化され、国民から愛されています
PAYITAHT~都~
しかし、ちょうどこの時期
ヨーロッパ各国から
(内部に敵がいるような)陰の侵略が盛んにあり
既に宮殿には多くの敵が入っている状況でした
独自の賢さと先をみる鋭さで耐え抜いてましたが・・
父アブドゥル・メジトの時代から根強く残った
ヨーロッパ各国からの侵略作戦は
非常に深い物があり、結果的には衰退してしまうのです
しかし
その衰退までの期間をこれだけ延ばせたのは
アブドゥル・ハミッド2世にしかできなかった、と言われています
前述のようにアブドゥル・ハミッド2世は
イスラム教の代表とも言われるほど熱心に教えを貫き
平等な経済や政治、宗教などの対策を練っていったのです
例えば
宗教や人種は無関係にひとつでなければならない
経済発展の為に、西洋の真似という言いなりではなく
独自の生産に努めなければならない
自国のみならず世界の困窮者を救済しなければならない
などです
これは現在のトルコに多大な影響を及ぼしているのです
近年におけるコロナの問題でも
トルコは日常の国交関係を顧みることなく
無差別に援助、救援を行ってきたのです
ご参考までにご覧ください~Twitter~
事実
ヨーロッパによる侵略作戦で
ヨーロッパ人が発明した人工菌をもった
死寸前の幼い子供を
宮殿前に棄て
「アブドゥル・ハミット2世ならこの子を宮殿に入れるはずだ
それにより宮殿内に菌が蔓延し、国が死ぬだろう」
という作戦もあったほど
無差別をうたう宗教に忠実な
アブドゥル・ハミット2世だったのです
このようにアブドゥル・ハミット2世は作戦をことごとく見抜き
退去させていたことから
残念なことに
ヨーロッパ発信のアブドゥル・ハミット情報は「悪く思わせる」
情報が多いのです
まるで中国や韓国が表する日本をご想像頂ければ
ご理解につながると思います
アブドゥル・ハミット2世の時代に
日本に関連している事件があり
将来日本人大臣の誕生に繋がる
「エルトゥールル号事件」があります
1890年
オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が
日本からトルコに帰る途中、台風によって沈没してしまった事件
この時、日本人は生存者の救助に懸命にあたって
衣類や食事などを分けて乗組員を助けました
そして民間人でありながら、遭難事件の犠牲者に対して
力になったのがこちらの人物です
山田寅次郎
(Torajiro Yamada/1866~1957年)
エルトゥールル号遭難事件の際
民間企業から5000円(現在の価値で1億円)を2年かけて集め
遭難した犠牲者に義援金として寄付しました
1892年
寅次郎は義援金を持ってオスマン帝国イスタンブールに到着
オスマン帝国外相だけでなく
皇帝アブドゥル・ハミット2世にも拝謁する機会に恵まれたのです
遠い国から義援金を持ってきた寅次郎に対して
オスマン帝国民や官僚は熱烈な歓迎をし
寅次郎はイスタンブールに数か月間滞在することになりました
その後、いったん日本に帰国しましたが
再びイスタンブールに赴き
アブドゥル・ハミット2世から
士官学校での日本語教育
東洋美術品整理の仕事を授けられました
寅次郎が日本語を教えた生徒の中には
この後独立戦争を興し1923年にトルコ共和国を独立させた
「建国の父」初代大統領のアタチュルクもいたのです
その後、寅次郎は日本の商品を売る「中村商店」を開店
貿易事業も始め
イスタンブールに腰を据えていったのです
イスタンブールに数年住んだ後
寅次郎はアブドゥル・ハミット2世より
ムスリムの名を授けられています
アブドゥル・ハリル・山田・パシャ
(Abudul Halil YAMADA Pasa)
パシャはオスマン帝国の大臣にのみ与えられる称号
この称号により皇帝からの深い感謝が見て取れます
第一次世界大戦が始まるまでイスタンブールに滞在し
オスマン帝国に貢献してきました
去る際には鎧(よろい)を贈答し
現在トプカプ宮殿に保管されています
日本とオスマン帝国を強く太い絆で結んだ人物でした
さて
オスマン帝国を語る上で特に欠かせない9人の皇帝を
3度に分けご紹介して参りました
今回は比較的長いご紹介にも関わらず
最後までお読みいただきありがとうございました
皆さまのお役に立てたら幸いです
引き続き更新していきます