こんにちは
観光客数が世界第6位のトルコ
トルコ観光の際に
知っておかなければ、楽しさが半減してしまう
「オスマン帝国史」
今回は観光やグルメから離れ
現トルコ共和国の原点ともなっている
オスマント帝国・皇帝(スルタン)の歴史①をご紹介していきます
~オスマン帝国発祥の地ビレジック~も併せてご覧ください
オスマン帝国は
1299年にオスマン1世が樹立し
1922年に滅亡するまで
623年も続いた大帝国です
その中でも功績を残し
皆さまにぜひ知っていただきたい皇帝9人
ピックアップしてご紹介して参ります
今回は3回に分けますので
まずは①前半4人をご紹介していきます
皇帝の名前・下の( ~ )年号は在位した年号です
オスマン1世
(Osman Gazi/1299~1326年=在位27年)
先につながる35人の皇帝全てが、この方の子孫となるわけです
オスマン帝国 初代皇帝
(正式には帝国になる前の王国
1453年コンスタンティノープル征服までは王国ですが
混乱を避ける為、全てオスマン帝国と記載します)
上のオスマン帝国発祥の地ビレジックのご紹介にもある通り
エルトゥールル
(遊牧民カユボユ族で、領土を拡大した首長)の息子です
オスマン1世は
4,600平方kmを約3倍以上広げ
16,000平方kmにも大きくした初代皇帝です
緑の部分がオスマン1世が拡大した領土です
当時の大帝国であった東ローマ帝国に手が及んでいない
周辺国を略奪・支配し軍事力を強めていきました
勇敢で決断力があり人望も厚く
周りが「追いていきたい」と思わせるような人柄から
戦略奪・支配の際には
戦士や宗教指導者など、どんどん仲間を増やしていったのです
1299年
セルジュックトルコから独立を宣言し
オスマン帝国を樹立
自らで「小アジアの最高指導者」だと宣言しました
これがオスマン帝国のはじまりです
その後も領土を拡大していき
1301年
東ローマ帝国の戦いで勝利
オスマン帝国を繁栄させました
ものすごいスピードで領土を広げていったのです
1326年
ブルサへ進撃しましたが、戦時中に病死
69歳でこの世を去りました
バヤズィト1世
(Bayezit Yilidirim/1389~1402年=在位13年)
第4代皇帝
先代ムラット1世の息子
コンスタンチノープル(今のイスタンブール)を囲むように
バルカン半島、ブルガリア、ギリシャ
アドリア海沿いなどの諸国を制覇し
巧みな頭脳と戦略で、領土をどんどん拡大していった皇帝で
オスマン1世の16,000平方kmから
(間に何人か皇帝は入りましたが)
バヤズィト1世は43,500平方kmまで領土を広げましたKARADENIZは黒海
AKDENIZは地中海です
さらには
積極的な遠征と
(自分含め、軍隊を飛ばすなどの)迅速な決断
を持ち合わせていて
「雷帝」「稲妻」と呼ばれ
とにかくスピード感あふれた皇帝で
現在でもオスマン帝国の歴史に深く名を残しています
1389年
父ムラット1世が暗殺され
後継者争いになりそうなところでしたが
バヤズィト1世は、兄弟(ヤクップ)を処刑して
自ら皇帝になりました
オスマン帝国の後継者争いにあたって
兄弟を殺すのはバヤズィト1世が始めたことで
後にもこのような後継者争いが起こっていったのです
数々の戦いに勝利し、その後、何度か遠征しましたが
1402年
アンカラの戦いで敗北
バヤズィト1世も捕虜となってしまいました
勾留されている間に死亡
(死因は、痛風、病死もしくは、毒を飲んで死んだ・・など不明)
メフメット2世
(Fatih Sultan Mehmet/1451~1481年=在位30年)
第7代皇帝
ムラット2世の息子です
30年にわたる2度の即位で
最初の即位は1444年
父ムラット2世がまだ生きている時
譲位されて即位しました
その時の年齢は、わずか12歳
2度目の即位は1451年
父が亡くなった知らせを聞いた途端
幼い弟を絞殺し2度目の即位を成し遂げました
2度目の即位以降、偉大なる功績を成し遂げました
セルビア、アルバニア、クルミア半島、黒海沿岸など
オスマン帝国の勢力を急速に拡大し
バヤズット1世の43,500平方kmから
(間に何人か皇帝は入りましたが)
メフメット2世は2,214,000平方kmまで
約5倍領土を広げたという偉大な皇帝です
在位30年間で5倍ってスゴイです
現トルコの殆どを領土にしているのが判ります
でも
もっと凄いのは
1453年
オスマン帝国史上で
一度も勝利したことがない
コンスタンティノープル
(当時東ローマ帝国の首都、現在のイスタンブール)
を攻略し
東ローマ帝国を滅ぼしオスマン帝国とした
現在でも、メフメット2世・・その名を誰もが知る偉大な皇帝です
このコンスタンティノープルの攻略は
過去の失敗に学び
短期決戦に挑みました
軍隊がコンスタンティノープルに着いた時
周りには城壁がありましたが、数日に渡り大砲で破壊
こうして大きな損害を与えることに成功し
とうとう東ローマ帝国を滅ぼしたのです
今でも観光スポットになっているルメリ城を基に行われた攻略です
イスタンブールにいらっしゃる際にはぜひ、見学をお勧めします
こうして中世の終わりを遂げ近世の幕を開いたのが
メフメット2世なのです
歴史的な大快挙でした
この出来事は、ヨーロッパ諸国に衝撃を与え
オスマントルコにとって大きな転換期となり
歴史に残っていったのです
1481年
メフメット2世は病を患っていたにも関わらず
遠征を強行しました
(パワフルなメフメット2世らしいですね~)
しかし、その遠征途中で亡くなったのです
メフメット2世は
「征服の父」「破壊者」「キリスト教最大の敵」
「血にまみれた君主」など、恐れられていましたが
その功績は一目瞭然
オスマン帝国に多大なる貢献をし
現トルコに大きな功績を遺す人物です
セリム1世
(Yavuz Sultan Selim/1512~1520年=在位8年)
第9代皇帝
8代皇帝バヤズィト2世の3男です
在位はわずか8年でしたが
その間に中東・アフリカの国々の支配をし
オスマン帝国を大幅に拡大させた皇帝です
メフメット2世の2,214,000平方kmから
(間に何人か皇帝は入りましたが)
セリム1世は6,557,000平方kmまで
約3倍領土を広げました
在位わずか8年で3倍
これもまた驚きですね
中東近辺のみの地図では足りなくなっているほど
セリム1世はオスマントルコ初代カリフとして名を残しており
カリフとは
イスラム世界の代表者(カトリックでいうローマ法王と同じ位)
この時、イスラム世界でカリフ自体は存在しましたので
イスラムカリフとしては第88代目ですが
オスマン帝国(=トルコ人)としては
初代になるわけです
最初はトラブゾン知事に任命されていましたが
父の消極性に不満を持っており
1512年
父を退位させ兄弟を殺し
即位しました
父は、その後直ぐに亡くなっており
セリム1世による暗殺も疑われています
エジプト遠征から戻り
次の遠征の準備をしていましたが
病気を患い
1520年54歳で死亡
8年間の在位を終えました
2016年完成のイスタンブールに架かる
ヨーロッパ⇔アジアを結ぶ第3番目の橋は
「ヤウズ・スルタン・セリム橋」と名づけられています
セリム1世は歴史的快挙を遂げたけでなく
オスマン帝国を揺るぎない帝国へと導いた
偉大さと
史上最大の領土を広めた息子を残しています
「え~~~
これ以上広めたの~~~」
「はいっ
次回ご紹介する
スレイマン1世~オスマントルコ皇帝の歴史➁~」です
日本でもドラマになりましたね
最後まで読んで頂きありがとうございました
引き続き更新していきます