みなさんこんにちは、にしんそばです。今回はちょっとばかりテーマを定めて書いてみることにしました。

みなさんは「山」と聞いて何を思い浮かべるだろう? 関東平野のド真ん中に住んでいる私の家の近所からも遠くに関東山地や富士山を臨むことができるぐらいだから、おそらく日本に住んでいれば身近に感じることも多い存在だろう。いくらかの山は信仰の対象になったり(富士山はまさにそうだ)、神聖視されたりしてきた。
このように、大雑把に「見るもの」としての山の像は広く万民に知られている山の側面であろう。しかし、実際に山に赴いて山体に歩みを進めてみたことがある人はそこまで多くはないのではないだろうか。いやもちろん多くてもいいのだけど。
私は(こんなタイトルでブログを書くぐらいだから)山に入るタイプの人間である。小学校低学年のころから親に色々な山に連れて行ってもらったこともあり、山に対する親近感が自然と沸いたのである。中学・高校でもゆるゆると部活で山登りを楽しんでいた。ゆるゆるというのがなかなかポイントで、月に1回程度しか山に登っていなかったのに加え、高2の2月以来(受験もあり)、1回も山行(山に入る行為のことを業界用語でこう呼ぶ)に参加していないのである。やっとこさ受験を終えて山に行くぞ〜〜と思っていたらとてもじゃないけど外に遊びに出れない雰囲気が漂ってしまっていたため、こうしてズルズルと1年半にわたって山と関わりのない人生を送ってきたのである。
そんなところへ某高校同期から突然私に「山行かん?(意訳)」というTwitterのDMが飛び込んできた。私は二つ返事で了承し、結局山経験のある高校同期計4人で、全員が久方ぶりに山に入ることになった。行き先はかくかくしかじかののち丹沢の定番である塔ノ岳に行くことにした。
開始3分で寝落ちする講義並のつまらない前置きとなってしまった。さて、当日である。無事に5時に起床した私は(ちなみにその時間のTLは寝る気のない人や私と同じようにもう起きた人(同行者である)、もうすぐ寝ようとする人、さらには夜中薄着のまま寝落ちて寒すぎて起きた人(風邪ひきそう あったかくして欲しい)、起きたけど早すぎるから二度寝を試みる人など様々であった)食欲のない身体を動かして着替え、台所にたまたま鎮座ましましていたバナナ2本のうち1本をモギュモギュと食べ、2本目に手をかけようとしたところで出発時間と相成ったため台所に伸ばしかけた手を大人しく引っ込めて最寄駅へと向かった。まだ夜が明けそうで明けないぐらいの時刻である。眠いんじゃ。
駅から電車に乗って一路登山道のはじまりを目指す。途中乗り換えに失敗した気がする(3分乗り換えなのに2分遅延は無理だって)けど気にしてはいけない。普段から行程に遊びを噛ませてある効果はこういうときに真価が発揮される。バスにじゅうぶん間に合う小田急線に無事に乗車。

↑登戸駅 駅名標がドラえもん仕様でかわいい(近くに藤子・F・不二雄ミュージアムなるものがある) 接近メロディーも「夢をかなえてドラえもん」である
1時間ほど小田急に揺られ(椅子がメチャメチャに硬く腰が破壊されてしまった)秦野に到着。同行者と合流してバス乗り場へ向かう。そこで我々が目にしたものはー
そう、人間の列である。ある程度予期されていたことではあったが、ホモサピのレーンである。しかもほぼ全員が一目で山へ入るとわかる格好をしている。申し訳程度のディスタンスをとって、特定のバスを待ち、一列に長々と続く、街中では完全に浮いている装備を備えた人類の数珠は閑静な朝の秦野駅に異様さをふんだんに提供していた。
しかしそのバスに乗らないことには登山は始まらない。我々は列の最後尾について並んだ。バスの定刻発車時刻は7:44である。神奈川中央交通(通称は神奈中である ちなみに町田にも乗り入れている)は優秀な事業者で、発車2分前にバスが入線、先頭に位置している数珠から車内に吸い込まれていった。しかし、デカ路線バス(ちなみに山岳路線なので神奈中で1番大きいであろうクソデカ路線バスはこの路線には投入されないっぽい)は無制限に数珠を吸い込むことができるかというとそうでもない。数珠も人間の姿である。おおよそ40〜50のホモサピを収容したバスは無慈悲に扉を閉め、一路終点へと去って行った。悲しいかな、我々の前には未だに50強ほどのホモサピ列が聳えている。次のバスは1時間後である。万事がお休みされている。しかし、このバスの運行は優秀な事業者・神奈中である。神奈中の謎の力により、無慈悲な扉の閉まりからおよそ10分後、臨時のバスが出現した。素晴らしき神奈中。再び吸い込まれるホモサピ数珠。ギリギリ吸い込んでくれるかな〜みたいなことを話していたら8人差ほどで吸い込んでくれなかった。無念の数珠である。
さらに20分後、時刻にして8:21、ついにもう1台の臨時バスが出現した。神奈中はもはやバス錬成の神の域である。無事にその臨時バスは我々4つの数珠とその他40あまりの数珠を載せて走り始めた。バスは秦野市街を抜けモリモリと高度を上げていく。文明の利器である。9時過ぎに終点ヤビツ峠で臨時バスは秦野駅で吸い込んだ登山装備ホモサピ全員をきっちりと吐き出した。
はじめに歩くのは舗装された林道であるため、我々はヤビツ峠の喧騒から逃れるようにすごすごとその舗装路を歩き始めた。 同じルートを辿るだろうと思われる他の登山者もちらほらいる。 歩き始めて数分、この日が実に登山に適していることを我々一行は感じ始めていた。暑きもなく寒くもない。陽が完全に出ているわけではないが雨も降っていない。最高である。このぶっこわれブログを読む物好きの中に、太陽光がドバドバと降り注ぎ、あるいは地表の藪の蒸散か何かでモワモワとしている夏の登山道や、寒くて身体を動かす気にもなれない冬の登山道の辛さを知っている人がどれだけいるかはわからないが、一年のうちでここで登らなきゃいつ登るのよ、ぐらいに快適な気候なのだ。そりゃあ登山者数もモリモリに多いわけである。
林道を20分ほど歩くと山道に分岐する。体の操りをしていざ登山開始である。実に1年8ヶ月ぶり。歩き始めて数分、既に先が思いやられ始めた。息が上がるのが早すぎるのである。肺が弱すぎる。大して高所でもなんでもないのにすぐにゼーハー言ってしまうのである。脚より先に肺が悲鳴をあげるのはとても想定外だったからとりあえず諸々を想定するのを諦めることにした。
途中で休憩を数回挟んでようやく第一のピーク、二ノ塔に到着である。体力がかなり限界であり、水分や糖分をパカパカ補給しながらなんとか脚を動かす。
実は私は地図が好きで、休憩のたびに地図でなんとなくの現在地を把握し、これからの行路の高低差や距離などをおおまかに掴んでおく癖がある。二ノ塔でもその例外に漏れることはなく、次のピーク、三ノ塔への高低差を確認して歩行を再開した。
ところがである、明らかにアップダウンが想定より激しいのである。二ノ塔から先は縦走のようなルートを取っており、塔ノ岳までには三ノ塔を含めいくつかのピークを越えていく(そのためにはいくつかの鞍部を越えなければならない)ため、ピークを過ぎて下がってまたしばらくしたら上がる、みたいな行程を踏むのだが、その高低差が想定よりだいぶおかしいのである。首と足首をひねりつつ(後者は歩くのが下手くそだったせい)三ノ塔に登頂。再び地図を見てその疑問は解決に向かった。縮尺を間違えていたのである。50000分の1の地図を勝手に25000分の1だと勘違いして読図していたため、等高線1本の高低差を半分で計算していたのである。そりゃおかしいわ。今度は首と足首を捻らずに(歩く感覚をだいぶ取り戻してきた)次々とピークに到達。新大日を越えて最後の40分の登りでもって塔ノ岳に登頂。標高1491m。お疲れ様でした。
山頂で昼を食らう(確か13時過ぎの到着)。山小屋でカップラーメンを売っているということで思わず買ってしまった。山頂で食べる熱い麺は最高である。景色が伴っていればなおさら。

残念ながら景色は伴っていなかった。

ありがたく完飲し、塔ノ岳の標識の写真などを撮りつつまったりする。あとは下山だけ。
14時前、下山開始。比較的なだらかな下り坂をひたすらに下っていく。最初の方は随分と景色が良い。非ホモサピにも出会えた。

非ホモサピが3人(3人目は分かりづらい)


良さそう景色(良かった)

さて、ドシドシ下山は比較的暇である(基本足元に注意して下るだけだ いやそれは全然暇じゃないけど)。しかし、どこか知っている山と様相が違う。そう、登山者が多いのである。バス以降触れていなかったが、ほぼほぼ全行程にわたって視界のどこかしらに同行者以外の人間が入るという稀有状況が発生していた。まぁ山としては何ホモサピが来ようと知ったこっちゃないかもしれないが、ホモサピとしてはとても重要な事項である。基本的に山でのメニメニ登山者の存在は安心感がある一方(登山道から逸れてしまう可能性が少ない、音がたくさんするので熊などに遭遇する可能性が低い、万が一のときにすぐ助けを呼べる、など)、追い抜きやすれ違いなど山特有のイベントがとても増えるのである。我々はペースが若干速い方らしく、追い抜かされるより追い抜くことが多かったように思えたが、それでもどこに退避しておくだの何だのでいろいろと考えることは多い。普段山にはそれほど人はいないことが多いからあんまりそういうものに慣れていない登山者も0ではない(私もそう)。まぁ要するにいろいろとめんどくさいのである。そのめんどくささについて考えていたらちょっとおかしくなってきてしまった(狂いはじめたわけではない)。24時間365日そこに鎮座ましましている山とその登山道を歩きたい一心で、10月最初の土曜日の朝早くから激混みのバスに詰め込まれて、辛い登りを登って束の間の昼食を楽しみまた山を下っていく、という同じようなことをする人間たちがこれほどまでにたくさんいるのである。登山ホモサピは老若男女本当に様々で(性比に関しては若干偏っている印象がある)、特に共通性を見出せるわけでもない。あるのはただ、たまたま今日、丹沢のこの山に脚を踏み入れたという共通事項だけである。すべてのバックグラウンドがガン無視されて、たくさんの人間が山の頂を、あるいは下山口を目指して決して速くはない速度で(ちなみにたまに山の中を爆速で走っている速い人もいる 脚と肺どうなってるんだ)蠢くのである。側から見たら滑稽そのものじゃないかととても思ってしまうのである。装備にしてもそうだ。ほとんどの人が登山靴を履き、目立つ服を着て、場合によってはステッキを持って、弁当を持ち込んだりコンロと鍋を持ち込んでなんらかを作ったりしている。山に入る、という共通点だけでこれだけの多様な人間たちが同じ「登山ホモサピ」として区分される、ということの異常性はかなりのものである。
そんなことを考えていたら下山は終わり、大倉バス停に到着した。16時ごろである。私たちの手前にも奥にも、やはり似たような格好をした登山ホモサピが帰宅を開始しようとバスを待ちわびている。そう、日帰りならたった数時間(我々は6時間と少しだった)山に入って、そのあとすぐ人里に再び溶け込むのである。大倉からのバスが渋沢駅に着いた瞬間、あるいは人間数珠(帰りはせいぜい30連ぐらいだった)がまとまってクソデカバス(行きよりも車体が長かった)に詰め込まれた瞬間に我々は山という共通性を失い、ただの妙な格好をした(付け加えればかなり汗臭い)集団である。 ホモサピとしては連続なのに属性が次第に解かれていくのは面白いものだな、となんとなく思いながらTwitterをいじりつつ(山の中は山頂など電波入りそうゾーン以外では概ね圏外である)渋沢駅まで輸送された。
渋沢まできてしまえばあとはもう本当に帰るだけである。行きと同じルートで、途中某路線の接続列車が目的地手前行きであることに憤怒しつつ帰路につき、帰宅し、諸々を済ませこうしていま布団に横たわりながら怪文を錬成しているという具合である。朝の5時から活動しているからもう20時間も経っている。早く寝た方がいい。
そんなこんなで久しぶりの山行は幕を閉じた。ごちゃごちゃ考えごとをしつつも、やっぱり思うのは山は楽しい。そりゃ危険はたくさんあるが(滑りやすい岩から滑ったら打ちどころによってはわりとおしまいである)、それを承知でも山に再び入ってしまうんだろうなぁ、という予感がしてしまう。まぁ結局山にいる人なんて多かれ少なかれこういう思考で山に行ってるんだろうな。おやすみなさい。