つかぬことだが、令和八年丙午の、「團菊祭大歌舞伎」を、夜の部だけだが、歌舞伎座で見せてもらった。今年は尾上辰之助襲名で賑わっていた。
かつて京都の南座で初代辰之助の「鳴神」と二代松緑の「熊谷陣屋」を観たことがあるが、今度は歌舞伎座で松緑と辰之助の共演を観ることになろうとは。
ところで今回夜の部では「助六」、観なかった昼の部では「寿曽我対面」が掛けられていたのは、違う意味で感慨深い出来事だった、世間では忘れられかけている曽我兄弟が、歌舞伎界ではまだ健在なことだ。
「助六」のどこが曽我兄弟なの?と問う向きは歌舞伎を知らない人で、花川戸助六とは曽我五郎時致が世を忍ぶ仮の姿。吉原で喧嘩をしてばかりなのを案じた兄の曽我十郎祐成も白酒売として登場する。
『曽我物語』は源平時代に関東を騒がせた仇討事件の物語化だが、兄弟が仇討ちまでの四苦八苦が物語の中心だからか、「平家」や「義経」にくらべると影が薄い。
ぶっちゃけて言うと、曽我兄弟はまだ幼い頃、父を工藤祐経に殺された上に祖父は頼朝に敵対して滅ぼされた。その工藤祐経は頼朝の重臣に。以来仇と狙って成人して祐経を討ち、行きがけの駄賃とばかりに頼朝を襲って返り討ちにあった、というのがあらすじ。
もっとも工藤祐経は兄弟の祖父に所領を横取りされて、そこからの巻き返しが発端ときて、どうもややこしい。
それに兄弟が兄が十郎、弟が五郎というのも悩みのタネで、芥川龍之介が家族の会話だかで「十郎が兄さんです」と正しく答えたら笑われたという。明治時代にこれなのだ。
しかし曽我物というジャンルがあるくらい、歌舞伎ではスターの扱い。「助六」の他にも「矢の根」くらいはどこかで見ただろう。また能にも「小袖曽我」、「夜討曽我」というのがある。
たとえば丸谷才一は「忠臣蔵が人気を博したのは曽我兄弟が愛好されたから」というのだが、赤穂浪士討ち入りの後早々に、これを曽我の仇討ちになぞらえた芝居が掛かって、あっという間に上演禁止になったという逸話もある。
そのくらい曽我兄弟は義経と並んで日本芸能のスターだったのだが、忠臣蔵や黄門様が幅を利かせるとあまり顧みられなくなったようだ。バリエーションを増やしても限界があるしね。
ところで「助六」だが、助六が喧嘩をふっかけまくっていたのは曽我家の家宝•名刀友切丸を取り返すため、それが敵役の髭の意休という仁の持ち物だったことが最後に明らかになる。
髭の意休という仁、金に物を言わせて女を靡かせるというヤなやつなんだが、最後に盛装をして現れる、おまけに助六をなぶって「ここな時致」とまで呼ぶ。
してみると、意休のじいさんは、祐経の代わりに出されているのだな、と気づくだろう。最後に友切丸を取り返して助六は意休さんを討つのだが(舞台ではそこはしない)、曽我物なら祐経も出てこないと締まらないのだ。という感想だが。
最後に「助六」の浄瑠璃は河東節といって、素人が勤める、もちろんお金持ちの素人だが。毎回出演者の名前がロビーに出されているそうで、今回の浄瑠璃衆の中に鎧塚さんの名前があった、ということでおしまい。

