オノデラーズその45 ~招かざる者~
延宝9(1681)年6月・・・・
久保田(秋田)藩を視察するため、幕府から使者3人がやって来た時、ある男が直訴しました
その男は、「小野寺休意道綱」と名乗っておりました
直訴で提出した言上状の内容は、以下の通りです(ちと長いです)
謹んで言上致します
私め、藤原朝臣小野寺休意道綱が訴えましたのは・・・・
そもそも源頼朝公の時、小野寺禅師太郎道縄(綱)の末裔である重道が下野よりこの地(仙北)へ入部し、遠江守義道まで9代82年間
羽州仙北と由利と最上の一部酒信(鮭延)の三カ所の守護屋形となり、今の横手の城を居城としておりました
それなのに、将軍家康公が秀頼公の代官となり、天下を差配した時、石田(治部)少輔が謀反を起こし、関ヶ原に出陣しました
家康公は、直ちに石田を討とうとした時、私めの先祖遠江守は、あまりにも貧乏で、出馬の用意が出来ず、参陣致しませんでした
その上、重い病を理由に家老家来を使わして、家康公に弁明させましたが、将軍からひどく不興を買い
しかも使わした家老どもは若輩者でしたので、全く申し開きすることが出来ませんでした
それだけではなく、家来の中で心変わりをした者がいて、事実でないことを家康公に申し上げたので
誰も遠江の言うことを取りなしてくれませんでした
無実の罪を着せられた遠江は、津和野の坂崎出羽守に預けられ、嫡子(左京のこと)2代に渡り、ご公儀よりお扶持を頂きました
そのうち、江戸東叡山の南光坊天海僧正に頼って、無実の罪を着せられたことを訴えましたが
不運にも元の領地に戻ることはなく、左京が死亡してから、1,2名いた遠江の子が亀井殿の所に置いて貰うことになりました
しかし、小野寺の者は、その時まだ江戸へ入ってはならないと言われていたので、江戸への出入りは出来ませんでした
このように申し上げている私めは、遠江の娘の子、つまり末孫にあたります
父は駿河大納言に仕えていた松崎将監と申します
駿河大納言が改易になってお預けのみになったので、(側に置いて貰うのは)迷惑であろうと思い
京へ上がって牢人し、名を佐々木甚九郎と改め、後に長兵衛と号し、隠遁生活を送っておりました
元来、松崎家は小野寺家の血筋ですので、遠江とよしみがあったこともあり、結婚後小野寺と名乗りました
さらに、甚九郎は御当家の譜代の家臣ですので、江戸のことはよく存じておりました
左京が領土回復の訴えを起こした時、甚九郎を京から江戸へ使わして、江戸に住まわせたのです
僧正様へ直接左京の訴えをお伝えしたのは、甚九郎です
甚九郎は、乙酉の年中に亡くなってしまったと聞いております
さて、私めですが、赤子の時から母方の祖母に育てられました
先程申し上げた不幸がありましたので、相続する知行もなく、22,3歳の頃に江戸へ上がり
巳の年まで牢人として江戸に住んでおりましたが、先祖のことがあり、どの大名家にも仕官致しませんでした
7年前の延宝3年の飢饉で大変苦労をし、2年間何とか凌いできましたが、ますます困窮を極めました
そこで、当地の佐竹殿の家中で、旧臣達が多く仕官しているので
昔、遠江に仕えていた家来の末裔が沢山いる角間川を目指して、秋田へ行きました
皆、最初は親切にしてくれたのですが、どいつもこいつも馬鹿な者達でして、身勝手ながら私の世話をしなくなりました
そこで、今度は秋田(久保田)城下に黒澤味右衛門と甚兵衛、今泉曽右衛門など、2,3人の旧臣がいました
仙北が改易になった時に、津和野まで遠江に供をした子孫です
今は佐竹殿に仕えています。
彼らへ「佐竹殿が領有している20万石は、78,9年間先祖遠江の領地であった所もあるので、知行地はいらないから
お扶持だけでも下さるように、申し上げてくれ」と、何度も書状を送っても、彼らは断りました
私は武家に生まれたので、今更武士以外の事をして生きていくことは出来ません
幸いにもお使者の方々が、秋田の地を巡検されると聞きましたので、渡りに船の心地で以上の事を申し上げました
(中略;あなた達なら私の言っていることが理解できるだろうから・・・という感じのことを書いている)
また、皆様方に訴状を差し上げましたので、公方様にも直接この言上状をお渡し下さい
おそらくお三方の御慈悲で、「佐竹殿から(休意に)少しお扶持を与えるように」と
ここの家老達へ一言言って下されば、大変大変有り難きことでございます
上の言上状の内容のとおり、延宝5(1677)年に、よっしーの孫と称する、小野寺休意が
小野寺家の旧臣の子孫が多く住んでいる角間川にやってきて
まあ、きっと「主君面」で旧臣の子孫達を困らせたんでしょうねえ・・・(と、私は勝手に妄想しました)
で、角間川で相手にされず、今度は久保田城下に住んでいる旧臣の子孫達へ
「佐竹殿の領地の一部は、元々俺のじいさんのものだった!だから、知行地ををくれとはいわないから
俺に扶持を与えるように、お前等から佐竹殿に頼んでくれ」
という書状を送って、こちらも相手にされなかったので、
丁度、幕府から巡検使がやって来ていたので、「俺の貧困をなんとかして!」と直訴して、騒ぎを起こした
・・・・という事でしょうか?@ぶっちゃけた話
(↑クリックすると、大きくなります)
オノデラーズの宿老家の1つであった、松岡家が持っていた、小野寺家の系図の写しに
確かに、よっしーの娘が松崎将監という者に嫁いでいるように書かれています
(ただし、この出来事があってから書き加えられた可能性もあるのかしらん??)
家が貧乏だからよっしーが関ヶ原に遅参したとか
天海に訴えたのがよっしーではなく、息子の左京になっていたりしている所はありますが
大体の内容は、よっしーの身内でないと分からないことまで知っていると言う印象を持ちました!
が、突然やってこられた旧臣の子孫達にとっては、どうやら「怪しいヤツ」に過ぎなかったようです
当時の八木藤兵衛であった八木道安(よっしーと乳兄弟だった藤兵衛道家の孫)が
休意が巡検使に直訴した事の件について(たぶん藩を通じて)問い合わせがあったらしく
その回答書の写しが残っております
それによると・・・
突然やって来て「世話をしてくれ」と言われ、「牢人の世話は出来ない」と言いました
他の者達と話し合って、「最上(新庄)へ帰えられた方がいい」などと(休意に)言いましたが
拒絶され、とやかく言って私の家に20日ほど滞在した後、喜福院という出家した者の所に
1年半程(原文は「壱年中程」)もいました
後に、新庄の小野寺儀右衛門の親類で不幸があったので、休意に私の家来を付き添わせ
新庄に送ってやりました
・・・・とまあ、最初から相手にしなかったけど、休意があーだこーだ言って、暫く角間川で世話になっていたようです
で、どうやら休意は、その後、儀右衛門の所へ送られたみたいです
この頃の儀右衛門は、亡くなる直前だったと思いますが、元気だったみたいです
息子の主水は、病を煩っていた時期だったようです
休意が新庄に送られた後、儀右衛門の家来である井上助右衛門が、主人二人の代わりに藤兵衛に書状を送っております
それによると・・・・
「角間川へ行っても駄目だし、公儀(ここでは新庄藩の事)へあなたのことを報告したが
『ここには置いておくな!』というお達しなので、他の所へ行くように」と、休意に言いました
ですので、必然的にそちらへ行くのではないか?と思いますが、そちらで拘わることは一切無用に願います
何分、ご迷惑をおかけするようなことをすると思いますので、そうなると後々旦那様(藤兵衛)の為になりません
他の方々にもそうお伝え下さい
というような事が書かれています
儀右衛門側でも「相手にするな」と言っているのですから、よっしーの孫だという信憑性がなかったのかもしれません
その後、休意はまた藤兵衛の所へ行ったようですが、その時も相手にしなかったら、姿を消したようです
・・・・で、休意の直訴に及んだんですねえ~
直訴後の休意はどうなったかは・・・・知りません
ま、もし休意が本当によっしーの孫でなかったら・・・・・
オノデラーズが改易し、よっしーが亡くなった頃までの話をどこで仕入れてきたのか???
かなり詳しく知っているので、驚きでございます
また、休意が本当によっしーの孫だったとしたら、「母方の祖母に育てられた」と言っているので
津和野で暮らしていたことがあると言うことになりますが・・・・
実は、慶安元(1648)年5月3日付亀井能登守茲政(よっしーの世話をしてくれた津和野藩主ですね~)の書上に
当時津和野で預けられていた罪人3人の事が報告されています
一人目はよっしーの事、二人目は左京の事が書かれていて、
二人については、何年何日にどういう病気で亡くなって、幕府から検死にやって来た使者の事まで書かれています
で、3人目は・・・・海野五左衛門という人物のことが書かれています
↑ちなみにこの人は、慶安元年5月3日時点では、生きています
海野五左衛門について、「駿河大納言様衆にて御座候」とかかれています
そして、承応2(1653)年6月10日付八木藤兵衛宛(じゃなくて、実際は息子の五兵衛宛か?)儀右衛門の書状によると
家光の三回忌により、流罪になっていた者が赦免されるという連絡が津和野から届いたらしく、それには・・・
石州の亀井能登殿に預けられている
仙北源太郎 左京の子です
小野寺角兵衛 孫五郎の子です(←きゃ~ごろーちゃんの子供だわ~)
海野五左衛門 この人知りません
の三人が赦免され、能登守殿の家来になるそうです
と書かれています
「海野五左衛門 この人知りません」という書き方に、「そりゃそうだよね?」と、ついつい吹いてしまいましたが
いずれにしても休意がよっしーの本当の孫であってもなくても
この海野五左衛門が、何か鍵を握っているように私は勝手に妄想しまてしまいした
次は、話を文化年間に一気に飛び、(ようやく)オノデラーズシリーズフィナーレに突入します
注;八木藤兵衛と井上助右衛門の書状を読むのが難しく、かなり意訳してしまいました
原文とかけ離れている可能性が大ですので、ご了承下さい@「ご了承下さい」って・・・・
あ、もちろん休意の書状も同様です
参考文献については、こちら をご覧下さい