少し前に、きっかけがあって少し「生贄」ということについて考えていた。

美しきもの、優れたるものの周囲には、それゆえに悪意善意問わずの波風が立つ。ほんのちょっとの無知や怠惰によって即アウトオブコントロールになるという、傍目から見ていても緊張を強いられる人生にいたりする。

不断の努力で、毎日の波風をなんとか乗り切っている人々もいるが、時折大波に浚われて沈んでいく人もいる。

美醜に関わらず、誰だってそうだと言う人もいるかもしれない。価値観によって多少も違うし、優れたる人のなかにも気楽に人生を楽しめる人だっていると思われる方もいるだろう。

その通りだと思う。だから、私は不幸にも自分を持て余してしまった人の話をしているんだと思う。

そんな困難な人生を誰が彼らに望んでいるというのだろう、と雲を睨みながら考えていた。彼らをデザインした存在がいたとしても、それに元凶があるとは思わないのだが。

ある草原に産まれた美しい白馬の話をする。

白馬が長じると、彼に愛されたいものとそれを快く思わないものが彼を逐う。居場所を探してさまよって疲れ果てた彼は、いつしか悪魔の声を聴く。

「自分に無関心になってしまえよ。なされるようになってしまえよ」

いつしか愛する馬を見つけてその首の付け根の匂いを嗅ぎながら、穏やかに暮らしたいというのは、世に認められない執着なのだろうかと彼は思う。

確かに自分を望まれているのに答えないのは我が儘なのかも知れない。とまた彼は思う。相手が自分の美しさにだけ惹かれていると決めつけるのも良くない(そもそも美しさとは何か自分も知らないのだ)。相手にも、同価の人生があるのだから、それなりの選択と責任と覚悟のうえで追ってきているのだろうし。

けれど

と、彼は思う。
自分と同価の人生を、自分はひとつ背負うので精一杯だ、と。悪魔がまたささやく。

「背負う?背負うことなんか要りやしない。相手を馬鹿にしちゃいけないよ。みんな立派な四つ脚で立ってるんだから」

それでも白馬は、いつしか愛する馬に出逢うかも知れないと考えて躊躇する。相手は、自分が出逢いを信じて待っていなかったことを怒るんじゃないだろうか。

「なあに、今君を追う土煙のなかにその相手がいるかも知れないさ。第一君は逃げてばかりいて、寂しがっているじゃないか」

そうだ。ずっと寂しかったんだ。

「あのなかには友人だっているかも知れない。それに、本当の相手が目の前に現れても、逃げてばかりいた今までの君には、それがその人だなんて解らないんじゃないか」

でも。

遠い丘に影が見えた。近付いてくる土煙を見ながら、白馬は脚がうずくのを感じていた。

と、いうような話。

白馬はこの先どうなるのだろう。幸せになると良いと思うが、どうやら自分の幸福について奇跡を信じている贅沢者のようなので、苦労しそうだ。誰かを信じることについて先々躊躇うこともあるかも知れない。

でも望み続けるということを私は美しいと思うし、自分の望みのディテールと向き合うことは誠実だと思う。彼はまだ内圧が低いんだと思う。自分の望みの質量をイメージしていないのだと思う。

だから私は、もしその白馬に会ったら言いたいのは、走れ走れということ。月並みだけれど。涙が尾を引くくらいのスピードで。

逃げでもいい。足が折れるまで走るか、足が止まるほどの感激に出逢うまで走るんだ。まず自分の直感を信じたものにしか、望みの内圧を昇華する力は得られないと思う。

もし一度止まってしまったとしても、だからって大したことじゃない。止まった間にわあっと押し寄せてきた外部圧力から脱出するために、また、より速く走ったが良い。「停止」は大リーグボール矯正ギプスくらいの効果はあると思うから、より走れるはずだ。

内外の世界で自分の望みに出逢うまで走りつづけるうちに、悪魔も「しょうがねえなあ」って笑い出すかも知れないよ。

それは素敵なことだと、私は思う。

長文失礼しました。
雨の日に外を観ていると、鳥が視界を横切ることがある。よっぽど強い雨では別だと思うが、雨でも鳥は飛ぶのだということに、25歳を過ぎた頃に気が付いた。

ああ、そうなのかい。

と思うだけなのだけれど、毎回少し不思議なものに出逢ったような気分になる。こんな気分も嫌いじゃない。

週末は稽古が休みだったので、宮城県立美術館で「前衛のみやぎ」展を観てきた。

良い展示だった。
もう少し気持ち悪くても耐えられるなあと思ったのだけれど、それは、自分が少し低級な前衛(後進が悔しいだけか)のなかにあるから思うのかも知れない。

前衛と呼ぶには美し過ぎるような。でも芸術って元々、美という悪魔との闘いだったり交歓だったりするんだろうから、当然なのかな。そう言う方向では必殺の気迫がある作品が、よく揃った美術展だと思う。

少し前に、雑誌「トーキングヘッズ」の26号《アヴァンギャルド1920》を購読した。ほぼ「ふうん」「へえ~…」という、若干引いた感想だったけれど、それはライター及ばずなのか、いやいや考えてみれば80年以上前のことだからさあ

と、諦められれば良かったのだけれど。その時代の少し前に、宇宙のように美しいニジンスキーがいる。

その雑誌により、ニジンスキーが、舞台上でポージングという方法で時空を超えたと知って、内臓出ちゃうかも、というくらい驚いた。ほらほらみんなでM理論超えよう!って思った。

前衛は、見返り美人の肢体に潜むのかも知れない。なんてことを、キャアキャアと。触れたいなと。感じている。

ああ。

やはり私は「向こうの言語」は要らない。美術に共通言語は、必要なのだろうか。この文章が読みにくく、意味が捉えにくいからこそ、「ああもうっ」とジェスチャーする。会合の、飲み屋の場所が解らない人のために紙切れに地図を書く。それが表現の突端かも知れない。

取るに足らない私だけれど、私にしてみりゃ誰だって取るに足らない。でも、誰だってオリジナルだ。その事実は侵せないし侵させたくない。

ヒーロー願望と叱られるかも知れないけれど。できるかどうか解らないけれど。でも、ちゃんとオリジナルに従った作品を作って、馬鹿正直なものを作りたい。

他人が噛んだ後のガムは喰いたくないという気持ちが、私にはある。だから、大好きな人たち、ガム作るから待ってて下さい。
今日は相棒が、他公演のお手伝いで稽古を休むとのことだったので留守番稽古。

結局ひとり稽古だったが、そんな予感もしていたので、黙々と体を使った試行錯誤をした。

頭の高さを上下させないスキップ。基本すり足だが、後ろ足を残し気味にして、スピードを上げると安定するようだ。

前転から横這い回転(?これで解るかなあ)。腰を少し重力方向に傾けることで、後は力を入れなくてもどんどん回転できるという脱力と重力とを意識&体に馴染ませるトレーニング(だと思う)。

骨盤の右骨をまた強打して、ひとり悶絶する。ワークショップ後の、一番重傷だった青あざが復活するんだろう。もういいや、とその後また試して、右回転ではソフト回避できそうだけれど、左回転は着地点になってしまうことを確認する。これは、骨盤に肉を盛るべきなのかな?腰回りの肉を寄せて下げるとか?そんなワコール方式を試すよりは、手っ取り早く痛みに慣れようと思う。

膝を上げての四つ足トレーニングを4周。どうも脚が二足歩行したがる。腕を曲げてみようと思うが、つっかい棒みたいになる。楽をしようと、跳び箱で覚えた動きをしようとしてるのかな。

音楽をかけてみる。

久しぶりに「ショーほど素敵な商売は無い」のテーマ曲をかけた。

ショーみたいな商売は他にないよ。
ショーをやってる人のような人は他にいないよ。
舞台って喜びに満ちてるよ!

というような曲で、舞台上にある「天上」をオバちゃんが力いっぱいに歌う曲。これを聴くと私というチキン野郎は、人前で表現をする勇気と優しさを持つ表現者を思って、そりゃもう感謝と感動で胸がいっぱいになるのだ。

うわあ~っと体が動いて、本当に久しぶりに何も考えず稽古場いっぱいに踊った。踊れた。驚いた。

舞踏やバレエやコンテンポラリーなどの迫力に気圧されて、あっけらかんと踊る私の本質を見失っていたなあと感じた。職業ダンサーには程遠いけれど、私は、やっぱり踊るんだなあ。

その後、少し悲しいような気もしたが、そんな中途半端な踊りができたことでも嬉しくて、忘れないようにとどんどん踊った。

一息ついて、稽古の残り30分で四つ足の加速を試した。跳び箱的な運動をしていたので、足を体の重心より後ろめに着地させてみたら感じが良かった。

後は前に腕を出す背筋と、トレーニングによるスムーズ化が課題かと思う。

本日のところは、以上。