別子銅山50年・・・・23・高橋溶鉱炉 | 定年後の自遊人

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22.明治20年代の別子高橋附近の溶鉱炉(その三)

  明治23年撮影

 

高橋製錬所である。前者(下の写真)と後者(上の写真)は続き写真であり、前者が銅山川の下流を見おろしたもの後者の写真は、明治十四年の写真(A銘)と同じアングルで撮影したものであるが、当時上段の石垣に新製錬所を築いたばかりで、下段にはなにもなかったが、これには立派な製錬所が写っている。それに続く前者の写真にも製錬所が写っており、その間の発展ぶりを窺うことができよう。両者の製錬所背後の山腹には、規鉱窯が並び、そこから製錬所へ向けシュートが降りている。なお、後者の写真には洋装の職員が写っている。

住友史料館報29 明治二十三年撮影の別子鉱山写真帳とその意義より

 

「旧別子の面影」より

 

 住友史料館報では明治23年の撮影で続き写真とありますが、

上流と下流からと同じ所を撮影しているが、年代が違うとみている。

特に違うのは 下の写真には橋が架かり、橋のたもとに扉が付けられている。

この写真は明治32年の大水害の時の高橋の様子です。

右一番奥の建物に三角の屋根が見える 

この台風で高橋製錬所は壊滅的な被害にあい製錬事業を撤退している。

 

しかし 旧別子の人口はこの後も増え続け明治38年に1万人余りになっている

採鉱事業は順調に進み、繁栄を極めた。

 

台風被害で撤退したのは製錬事業だけで

「明治32年の大水害で旧別子撤退」と記しているのは誤りである。