「産業遺産説明板」 25 本町通り

場所 口屋公民館敷地内
北緯 33.580503 経度 133.163015
標高 2.4m
備考 敷地の入口にある
北緯 33.580503 経度 133.163015
標高 2.4m
備考 敷地の入口にある


昭和10年頃の本町通り
説明文
元禄15年(1702)に、別子銅山の新居浜口屋が現在の本町通りに面して設け
られ、新居浜浦は次第に発展してきた。この通りには雑貨屋、呉服屋、料理屋、
旅館などが立ち並び東新地方第一の繁華街として栄えてきた。明治22年(1889)
に惣開に分店が移転後、新居浜口屋跡は小学校、町役場、市役所、図書館などに
なった歴史を見ると、本町通りがメインストリートであったことが伺える。
また、明治43年(1911)には、新居浜町内の各社を合祀して新居神社を本町
通りに面して設けたが、昭和25年(1950)には大神宮を合わせ一宮神社境内に
移した。
昭和10年頃の本町通りには、東は新居浜口屋跡から西は新居神社の手前まで
日除けのテントが張られていた。ひもを引くと自由に開閉できるようになってい
た。今でいうアーケードである。しかし、昭和6年(1931)に昭和通りが新設さ
れてから、順次商店が昭和通りに移っていった。
小学生用解説
ほんまちどおり
1702年年に、新居浜口屋(今の口屋跡記念公民館)という船つき場(港)が本町
通りの近くにできた。その後しだいに旅館や商店が多く立ち並び、にぎやか
な本町商店街ができた。 1931年に、昭和通りができ、商店が昭和通りにうつっ
ていった。
られ、新居浜浦は次第に発展してきた。この通りには雑貨屋、呉服屋、料理屋、
旅館などが立ち並び東新地方第一の繁華街として栄えてきた。明治22年(1889)
に惣開に分店が移転後、新居浜口屋跡は小学校、町役場、市役所、図書館などに
なった歴史を見ると、本町通りがメインストリートであったことが伺える。
また、明治43年(1911)には、新居浜町内の各社を合祀して新居神社を本町
通りに面して設けたが、昭和25年(1950)には大神宮を合わせ一宮神社境内に
移した。
昭和10年頃の本町通りには、東は新居浜口屋跡から西は新居神社の手前まで
日除けのテントが張られていた。ひもを引くと自由に開閉できるようになってい
た。今でいうアーケードである。しかし、昭和6年(1931)に昭和通りが新設さ
れてから、順次商店が昭和通りに移っていった。
ほんまちどおり
1702年年に、新居浜口屋(今の口屋跡記念公民館)という船つき場(港)が本町
通りの近くにできた。その後しだいに旅館や商店が多く立ち並び、にぎやか
な本町商店街ができた。 1931年に、昭和通りができ、商店が昭和通りにうつっ
ていった。
説明板の場所の地図


地図は 新居浜市商工観光課が作成した「産業遺産を歩こうマップ」の裏面にある
明治32年から40年までの新居浜の地図の一部海岸線と周辺の地図です。
本町通りの原型のような道路が見えます。西原・中須賀・東町・元塚へと続いています。
東町の少し西 赤丸あたりが口屋と思われます。
この時代の銅は住友別子鉱山鉄道によて惣開に運ばれていました。
明治32年から40年までの新居浜の地図の一部海岸線と周辺の地図です。
本町通りの原型のような道路が見えます。西原・中須賀・東町・元塚へと続いています。
東町の少し西 赤丸あたりが口屋と思われます。
この時代の銅は住友別子鉱山鉄道によて惣開に運ばれていました。
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一宮神社の社伝には、古来大円浜(おおえのはま)といい、のち大江と書き、
次いで新居浜に改められたという。
当村庄屋の寛永から万治年間(1624-61)の「免札」数通には新居浜村とあり、
浦とよぶようになったのは、寛文10年(1670)松平氏西条入部以後という。
愛媛県の地名1233ページより

一宮神社の社伝には、古来大円浜(おおえのはま)といい、のち大江と書き、
次いで新居浜に改められたという。
当村庄屋の寛永から万治年間(1624-61)の「免札」数通には新居浜村とあり、
浦とよぶようになったのは、寛文10年(1670)松平氏西条入部以後という。
愛媛県の地名1233ページより

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昭和32年ですから 聞いたことのある店とか会社がありますね。
ほとんどの店や会社は他の所に移転しています。山下印刷は今もこの場所にあります。
昭和32年ですから 聞いたことのある店とか会社がありますね。
ほとんどの店や会社は他の所に移転しています。山下印刷は今もこの場所にあります。
