別子銅山-旧別子-案内板-前山と牛車道

登山道に「延喜の端]と看板がある 鋭角に曲がるように道がついている。
2分ぐらいでたどり着く。登山口の看板で「展望台」と記したところだ
旧別子が一望出来るところでもある しかし 木が伸びて少し
展望が悪くなった。木の無かった旧別子としては喜ばしい事です。

2分ぐらいでたどり着く。登山口の看板で「展望台」と記したところだ
旧別子が一望出来るところでもある しかし 木が伸びて少し
展望が悪くなった。木の無かった旧別子としては喜ばしい事です。

(全文)
前山と牛車道
前山と牛車道
正面に見える範囲を前山という。稜線の窪んだ所が銅山越え
で、そこから左に一条の線が見えるのは明治13年に造られた牛
車道である。峠からジグザグに下った道が昔からの中持道で沢
山の人々が行き交っていた。その下のヒノキ林の中には歓喜・
歓東間符があり、辺り一帯は山方集落といって鉱夫さんが住ん
でいた。更に手前の雑木林の中には江戸時代に砕女小屋という
選鉱場があって、ひねもす選鉱婦の嬌声がこだましていた。
更に手前の方は鍛冶屋谷集落といって、採鉱関係者の住居がひ
しめいていた。
左の山肌にかすかに見える横線は牛車道の跡で、重任局の銅
蔵を出発した牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。
で、そこから左に一条の線が見えるのは明治13年に造られた牛
車道である。峠からジグザグに下った道が昔からの中持道で沢
山の人々が行き交っていた。その下のヒノキ林の中には歓喜・
歓東間符があり、辺り一帯は山方集落といって鉱夫さんが住ん
でいた。更に手前の雑木林の中には江戸時代に砕女小屋という
選鉱場があって、ひねもす選鉱婦の嬌声がこだましていた。
更に手前の方は鍛冶屋谷集落といって、採鉱関係者の住居がひ
しめいていた。
左の山肌にかすかに見える横線は牛車道の跡で、重任局の銅
蔵を出発した牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。

(写真)
旧別子の面影 明治20年代の別子山方
旧別子の面影 明治20年代の別子山方
