別子銅山-人物伝-広瀬宰平 追補
広瀬宰平氏のお墓に手を合わせてきました。
広瀬家墓所は新居浜市山田町にあり新居浜市指定史跡にも
なっていると 新居浜市役所のホームページに書いてあった。
平成16年8月5日だから 最近の事である。
なっていると 新居浜市役所のホームページに書いてあった。
平成16年8月5日だから 最近の事である。
私には山田町とは認識がなく「山田社宅」なら知っているが
その周辺ぐらいにしか思っていなかった。
「広瀬家墓所」を紹介しておきます。
その周辺ぐらいにしか思っていなかった。
「広瀬家墓所」を紹介しておきます。
広瀬邸の東の道路を山の方に登り突き当たりが高速です。
左に折れ測道を500m行くと①に案内板があります。
左に折れ測道を500m行くと①に案内板があります。
②の案内板に従い
③に着きます。
ここから急坂 細道になり 測道の脇に駐車して歩きました
ここから急坂 細道になり 測道の脇に駐車して歩きました
歩いて50m程で広瀬家墓所になります。
左が広瀬宰平氏の墓です。
たくさんお墓が並んでいますが 案内板に誰のお墓か記していました
①宰平妻幸
②宰平先々妻相
③宰平先妻町
④TOKOSlENOHOMARE
⑤初代義泰 義泰妻 為
⑥二代宰平
⑦三代満正
⑧満正五女正子 次郎長男満忠
四代次郎・五代孝六郎・六代つぎ子 (五輪塔)
⑨満正妻米
⑩次郎妻艶香
⑪満正次女八重子
⑫満正三女小寿和
⑬満正四女多鶴子
①宰平妻幸
②宰平先々妻相
③宰平先妻町
④TOKOSlENOHOMARE
⑤初代義泰 義泰妻 為
⑥二代宰平
⑦三代満正
⑧満正五女正子 次郎長男満忠
四代次郎・五代孝六郎・六代つぎ子 (五輪塔)
⑨満正妻米
⑩次郎妻艶香
⑪満正次女八重子
⑫満正三女小寿和
⑬満正四女多鶴子
案内板に記してある内容
広瀬家墓所(新居浜市山田町)新居浜市指定史跡
別子銅山の近代化によつてわが国の近代産業を育成し、新居浜市と
住友グループ発展の基礎を確立した広瀬宰平(墓碑⑥)を始め、国家や
郷土の発展に尽くした広瀬家一族の墓碑と従業員の供養塔からなる。
当初の墓所は旧金子村の北谷墓地にあつたが、明治二十年(1887)
広瀬本邸(一宮神社参道付近)の上原移転に伴い、新居浜市街が一望でぎ
る当地に移転され、大正三年(1914)の宰平没後に整備された。
墓碑のうち、「TOKOSIENOHOMARE(永久の誉れ)」
(墓碑④)は、昭和十五年(1940)五月の別子開坑二五〇年祭にさ
いし、住友吉左衙門(十六代友成)の宰平墓参を記念したもの。「遺芳
千歳」(墓碑⑧)は、四代次郎ほかの合葬墓碑で、東西隅には、滋賀県の
宰平生家と旧金子本邸の遙拝所がある。
別子銅山の近代化によつてわが国の近代産業を育成し、新居浜市と
住友グループ発展の基礎を確立した広瀬宰平(墓碑⑥)を始め、国家や
郷土の発展に尽くした広瀬家一族の墓碑と従業員の供養塔からなる。
当初の墓所は旧金子村の北谷墓地にあつたが、明治二十年(1887)
広瀬本邸(一宮神社参道付近)の上原移転に伴い、新居浜市街が一望でぎ
る当地に移転され、大正三年(1914)の宰平没後に整備された。
墓碑のうち、「TOKOSIENOHOMARE(永久の誉れ)」
(墓碑④)は、昭和十五年(1940)五月の別子開坑二五〇年祭にさ
いし、住友吉左衙門(十六代友成)の宰平墓参を記念したもの。「遺芳
千歳」(墓碑⑧)は、四代次郎ほかの合葬墓碑で、東西隅には、滋賀県の
宰平生家と旧金子本邸の遙拝所がある。
新居浜を一望出来る高台で安らかに眠っていらっしゃるのでしょう。
途中まで書いていた広瀬宰平氏の家系図ですが
少し追加出来ました。
新居浜図書館に「高祖父 広瀬宰平に想う」という
高木康江さんの書いた本があり
少し追加出来ました。
新居浜図書館に「高祖父 広瀬宰平に想う」という
高木康江さんの書いた本があり
この222ページに
家系図がありました。参考にさせて頂きました
家系図がありました。参考にさせて頂きました
広瀬宰平に息子がひとり
その息子に 娘が7人 長女に養子を迎えます
男の子が生まれますが8歳で他界 女ばかり4人
長女に養子を迎え 生まれたのは女の子ばかり4人
長女は高木家に嫁に行きます。
その長女(高木康江)が書いたのは「高祖父 広瀬宰平に想う」の本です。
広瀬家は女系なのでしょうか。
その息子に 娘が7人 長女に養子を迎えます
男の子が生まれますが8歳で他界 女ばかり4人
長女に養子を迎え 生まれたのは女の子ばかり4人
長女は高木家に嫁に行きます。
その長女(高木康江)が書いたのは「高祖父 広瀬宰平に想う」の本です。
広瀬家は女系なのでしょうか。