神を定義したのはムハンマド | デフレ派のブログ

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デフレ容認、円高容認の視点で経済などを論じたいと思います。経済学部出身です。

キリスト教徒はコーランを読むべきです。

そして、イスラム教のありがたさを知るべきでしょう。


神を明確に定義したのは、ムハンマドです。

キリスト教は神が何なのかを明確に定義できずにいました。

否定神学などが示すように、キリスト教は神がどんなものかを明確に定義できなかったのです。


しかし、イスラム教の創始者ムハンマドは明確に神を定義しました。

ムハンマドの神の定義は何度もくり返しコーランで語られ、流麗に描かれます。

それは、「神は全知全能であり、万物の創造主であり、天地の所有者であり、寛大で慈悲深い」ですl。


キリスト教の聖書には、「神は全能である」とは書いてあります。「神はすべてをご存じである」とも書いてあります。しかし、「神は全知全能である」ということばは書いてありません。


「神は全知全能である」というのは、カトリックの祈祷文には書いてあります。そして、カトリックの教会ではこの祈祷文を読み上げています。この祈祷文は、一世紀から二世紀頃に成立したものです。


カトリックとプロテスタントのちがいについて、わかりやすくまとめます。


1.元々、ユダヤ教において正典は、五書(律法)だけだった。
2.捕囚という苦難に遭い、預言書やら諸書やらがどんどん増えていった。
3.紀元前2c頃にヘブライ語聖書はギリシア語訳(70人訳)された。
4.70人訳には色んなバージョンがあり、諸書に異動がある。
5.紀元後1c キリスト教徒は新約の諸書を作り出した。
6.本家のユダヤ教は紀元後1c末にヤムニア正典会議を開催し正典の範囲を決めた。
7.カトリックは70人訳の一つを4cにラテン語訳(ウルガタ)し、ウルガタを正典とした。
8.16cの宗教改革の時、プロテスタントはウルガタを棄て、ヘブライ語正典や新約ギリシア語正典に
 直接あたった。その時にプロテスタントはヘブライ語聖書について正典範囲をヤムニア正典会議に
 依拠することにした。
9.70人訳にあり、ヤムニア正典会議にないヘブライ語聖書は外典とみなされ
 プロテスタントは捨てた。カトリックはウルガタの伝統を守り外典も使用


イエスは、聖霊の子だとマタイ福音書に書いてあります。

イエスを神の子だと書いたのは「使徒行伝」を書いた聖ルカです。

聖ルカは、ルカ福音書のルカです。


まあ、この時点で、イエスが神の子だというのは矛盾しています。

もちろん、三位一体の教義が成立して、イエスは神の子であるというのが正統なキリスト教であると定められました。


話を戻しますが、神を明確に定義したのはムハンマドです。


「神は寛大で慈悲深い」ということばも、コーランでは何度もくり返し流麗に語られます。

キリスト教の聖書には、「神は寛大で慈悲深い」とはどこにも書いてありません。神は憐れみ深い方であらせられるとは書いてあります。


ムハンマドを天使ジブリールが銃殺する風刺画を描いて、フランスで銃殺テロが起きました。

フランス人は「わたしはシャルリー(風刺画をのせた新聞紙)だ」と宣言してデモを行いました。


ですが、キリスト教徒のみなさん、冷静に考えてください。あなたたちは西洋中心な価値観にとらわれています。

イエスが天使ガブリエルに銃殺される絵を公式な新聞がのせて、抗議がこないわけがありません。キリスト教原理主義者もそんなに穏便ではないでしょう。


ムハンマドの考え出した神の定義を、キリスト教徒は聖書をつぎはぎして、こじつけて説明します。

でも、それは後世の先入観がそうさせるものです。

聖書のどこにも、「神は全知全能である」とも、「神は寛大で慈悲深い」とも書いてありません。

「神は全知全能で、万物の創造主で、天地の所有者で、寛大で慈悲深い」と書いてあるのはコーランです。


神を明確に定義したのはムハンマドです。



追記。


ちなみに、新約聖書には、全知であるはずのイエスが、レギオンに「汝は何者か」と問うていますね。

キリスト教の神が全知でない証拠です。



追追記。


ちなみに、日本ではあまり知られていませんが、キリスト教会は狂信的なところです。

キリスト教会に礼拝する時は、絶対に必ず、帽子をかぶりましょう。

新約聖書には「おおいをかぶらず、礼拝した者の髪を切れ」と書いてあり、帽子やフードをかぶらずに礼拝すると、丸坊主にされますよ。

丸坊主にされるのを耐えても、不信心な信者だと思われてバカにされるだけです。

西洋の着物にフードがついてるパーカーなどは、キリスト教会に礼拝する時、おおいをかぶるためにあるものです。

アメリカの学校で卒業式に帽子を投げるというのも、卒業式がキリスト教会と関係し、それに従いまた解法されたことを示すものです。日本人がやってもまったく意味がありません。



追追追記。


まあ、イスラム教徒も銃撃はしてはいけませんよ。


ですが、キリスト教会も充分に狂信的なところです。

保育園や小学生の時、無理やり丸坊主にされた理由が、キリスト教系の施設に見学に行ったから、帽子をかぶってないので、丸坊主にしたというのが大人になってからわかりました。

日本の学校関係者は、生徒をキリスト教関係施設なんかには絶対に行かせてはいけません。

キリスト教会を敬い、敬意と礼節をもって接しても、あいつらには帽子をかぶっているかどうかだけが規準なのです。帽子をかぶってない生徒はみんな丸坊主にされてしまいます。

ちょっとキリスト教会に相談してみようかな、などとは絶対に考えてはいけません。キリスト教会は帽子をかぶらずに相談に来たものをみんな強制的に丸坊主にしてふんぞりかえっていますから。



追追追追記。


帽子をかぶらずに礼拝しているというキリスト教徒複数名の意見をいただきましたが、


ぼくは、現在において、帽子をかぶらずにキリスト教会に礼拝して神父に丸坊主にされた女性を三人以上知っています。

二つ以上の教会で行われている現実です。



追追追追追記。


キリスト教徒の男はみんなそんなことはないというので、聖書の箇所を引用します。


コリント人への第一の手紙
11:4祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。
11:5祈をしたり預言をしたりする時、
かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。
11:6もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。
髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。