あなたの誕生日、なにも発せず ごめんなさい。
ごめんなさいという言葉さえも、綴っていない。
気持ちが冷めたわけでもなく、忘れていたわけでもないのに
お誕生日おめでとう。が言えない。
私はあなたに なにもできなくなっていた。
あなたの誕生日、なにも発せず ごめんなさい。
ごめんなさいという言葉さえも、綴っていない。
気持ちが冷めたわけでもなく、忘れていたわけでもないのに
お誕生日おめでとう。が言えない。
私はあなたに なにもできなくなっていた。
人は、「幸せ」であるかどうか、「幸せ」を求めて さ迷い歩いている。
「幸せ」とは、肉体的終末を迎えたとき、振り返る人生論に「なんだかんだいっても、幸せだった。」と
思える「時」で、人生を歩いている中で 幸せ探しより、「さいわいなこと。」として
ささやかな、小さな事から感謝をして、「これさいわいです。」といっていたほうが いいのかしらと最近思う。
「幸せ」って、漠然とした壮大なイメージがある。
過去に、「不幸じゃなければいいんだよ」と言った人がいた。
「不幸」ってなに?と思ったけど、その人にとってみれば、天涯孤独の身から出た言葉だったから
その時は、「そっか~」としか言えなかった。
さいわいなことを重ねていけば、「幸せ」につながるんじゃないかな。
「幸わいなことです。ありがとう。」
でも、「幸」って漢字はすごい。「さち」「「しあわせ」「からい」「つらい」「さいわい」って
読むんだもの・・・。
身近じゃなくても、尊敬できる人・敬愛する人はいますか?
と、聞かれたらいつもいます・・。と、答える。
子供のとき、尊敬する人は「両親」と答えている人に
私は違和感を持っていた。もしかしたら 羨ましかったのかもしれない。
どうしたら、そう思えるのか・・・。
両親は共働きで 一緒にいる時間が少なかったような気がする。
その分、周りの人たちや自然、友達で囲まれていて
寂しさや愛情不足なんて感じなかった時代。
いろんなことを教わったのも、両親ではなく身近な人だった。
たぶん、私の中では両親が行っていることが理不尽でこういう大人にはなりたくないという
反骨精神で成長してきたような気がする。
投げかける疑問に対して 両親は納得できるような説明の仕方はしなかった。
忙しさの中で 向き合うことはとても労力の要るもの・・。
その当時はわからなかったけど、反抗もせず自分で答えを見つけた。
見つからないことが多かったような気がするけど、それは音楽を聴いたり本を読んだりしてカバー?!していた。
今は、自分に子供がいる。
そう、きちんと説明する。決して先回りしないできるだけ自分の想像・考える力を身につけて欲しい願い。
だから、ヒントもあげてみる。
突き放すこともある。
いろんな経験をして欲しい、そこからいろいろ学んで欲しい。
たぶん、私が子供の頃に感じたような理不尽なことばかりなんだ・・・。
私がいえないときは、他の人に言ってもらう。
他人も必要だしね。
今の子供たちの思考傾向が 本当に危ないと思うよ。
いまや 無数にある個人ブログ。
もう 一昔前(4~5年前)には 思いもよらなかったネットの普及率。
瞬時で 知りたい情報などわかるが ありすぎてどれをチョイスするのは
自分次第。
その日の気分で繋がるプログ先は ジャンルはバラバラ。
最近 いいプログにめぐり合えたなと思った。
不覚にも 涙した。
そう 不覚なの・・・。感情移入してしまった。
まるで小説を読んでいるかのような 運命の中での日常を綴っている。
書き手になりたかった・・。というほどだから
発する気持ちの表現力は 素直でとてもよかった。
残念ながら 筆者は病気療養中というか 期限付きの状態。
改めて思った。
わたしの彼も 期限付きなのに なにもしてない。