最近政治ばかり批判しているような感じになり、自分でもフェイスブックやブログを作り始めて、こんなに愚痴を書き込む時がくるとは想像していませんでした。
書きすぎた〜とも思うので、違う歴史のマニアックネタを書きますが、意外と皆さん知らないと思いますよん。
私 相当歴史が好きなので戦国時代について、多くの戦国期の大名は、近隣する領地の武将と戦争したり同盟したりし、その時々において様々な決断をタイムリーにおこない、準備して行動を起こし、結果、自分の子孫の繁栄と領地の拡大、そして領民の安定を図っていた このスリルあふれる時代を、どう生きていくのかを検証したいと思います。
が まずは一番大事な「食」の部分、2000年以上前から、『お米』の世界から書いていきます。
よく考えれば当たり前なんだけど、パッと出てくる人は、
知知識が豊富すごいです。
では、そもそも日本にお米って、いつからあるかご存知?
現在お米の日本への流通ルートは4つの説があり、3〜6千年前に朝鮮もしくは中国から伝わった(マニアック度1)とされ、日本 最初の水田耕作は、『縄文と弥生時代のはざま九州北部で始まった説』(マニアック度2)が有力とされています。
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310006_00000
ちなみに‥ 「世界で一番長く続いた時代」が
『縄文時代』」(マニアック度1)なんです。
その長さは なんと8000年 もです!!
学校の教科書で農耕は弥生時代からと習った人、今その情報は古く誤った情報で、現在 縄文時代は狩猟や農業もおこないながら、大変多様性に富む食事をしていたと考えられています。
研究者の 小畑 弘之氏は、2016年 縄文人は蔓豆(つたまめ)の栽培(それ以外にもゴボウや粟など)をしていたと発表しています。(マニアック度3)
しかし当時は農業・灌漑技術や品種改良が発達してるわけではない時代ですから、大量生産は苦労したでしょう。
ではなぜ食品の多様性がある中で、芋や豆が主力にならずに、米が主になったのか考えた事ありますか?(マニアック度1)
100グラムで見たカロリー数は、芋類で約60〜120キロカロリー、後世に入ってきたサツマイモでさえ135キロカロリーですが、穀物類の粟や米などは300キロカロリー以上あります。
またヒエや粟より米は収穫量が多く、多少寒くても育てやすかった事から日本全国に広がったと考えられます。
ちなみに弥生時代から、「税」は徴収されており、最古の記録は約1800年前の『魏志倭人伝』に「建物や倉庫があって、集めた税を納めていた」と記述があります。(マニアック度2)
飛鳥〜奈良時代での農園は、国家および天皇を中心とした官僚が管理し、農民に土地を貸していました。
しかし国が貸し与える場所も限界がきたうえに、農民の税の負担も重くなり、暮らしもきつくなる一方なので労働意欲の低下がおこったのでした。
そこで、743年 誰でもいいから農園開発した者に末代まで農園の所有を認めるという『墾田永年私財法』ができました。(マニアック度2)
これが大人気に!!
豪族や貴族などの権力者が一気に開発を進めた結果、この後の新田開発が一気に進みました、それと同時に「田の単位面積あたりの収穫量」採算が求められ、税も「米」で支払うことが進んだのではないかと京都大学の佐藤洋一郎氏は指摘しています。
それから100年ぐらい後、平安末期から鎌倉時代に大きな農業改革が3つ起こります。
『堆肥肥料と二毛作、そして田植え』
の登場です(マニアック度3)
品質はまだまだの堆肥と二毛作の普及、そして農具の進歩が、国内の食糧事情が大きく変えていき、領民がある程度増えても食べていける様になっていきます。
1311年 松崎天神絵巻 牛に鋤を引かせているのが確認できます。
あまり知られていませんが、『田植え』も収穫量を増やす画期的な知恵で、それまでの稲作は,種もみを田んぼに直接ばらまく「直蒔き」でおこなっていました。
種まきは楽ですが、成長に偏りがでたりして収穫量が少なくなる傾向がありました。
が、ある一定度大きさまで育った苗を、本田に均等に移し植えると収穫量が増えることに気がついたのです。
そして鎌倉→室町時代を経て戦国時代に突入していくのですが、農業改革と人口が増えていく時代が進むと、戦の参加人数も増え大規模戦闘が起こるようになっていくわけです。
だらだら書いていたら、やたら長い文章になってしまったので、改めて書き直します。
次回は、出兵・籠城にしろ、兵士に食べさせる兵糧 すなわち米がないと何もできません。
そこで領主はどんなこと考えていたのか〜を書いていきます。