は中国浙江省紹興市新昌県にある長丘田という山村に生まれました.お父さんは元々は革命者ですがその後はお母さんと共に生粋の労働者になりました.兄弟は五人ですが私は三番目です.上の二人はお姉さんですから私が生まれてから家庭の宝物になりました.しかし私が生まれた後偏心で料理は新鮮な野菜しか食べられません.別のものは全然食べられないので両親は新鮮な野菜を私のために用意しなければならなくて、ずいぶん迷惑を掛けました.そのままずっと十三歳まで継続しました.その頃遠い所で受業しますから学校で食事しますが野菜の漬物に慣れました.その後は別の料理もだんだん慣れてしまいました。たぶん低身長のためよく馬鹿にされましたから、私は十三歳の頃家伝の武芸を受け取りました.
  つまりその時から私は食べ物に対し問題がなくなりました.受業も順調に続いてしまいました.ずっと一九八三年の頃中国で政治や経済関係の改革によって私が住んでいる山村も変わってきました.沢山の学校と関係する教育も回復し始めました.私も時代のすう勢のあとに従て仕事が一番重要と思って試験を受け地元の技術工学校に入りました.しかしその時の技術工学校は回復したばかりです.私たちは技術中等学校の三年制ですがテキストがないから一年半だけ受業してからすぐ新昌毛織品工場の本工場に行って実習しました.実習と言うよりも生粋の労働者というほうがいいのですが、皆さんと一緒に仕事をやっています.私が勤勉でよく勉強したかも知れませんが半年しかない時間で学校で習った知識(私の専門は毛紡織品です)を工場の生産と組合せして、間もなくたくさんの技術を把握しました.
  この間ちょうど経済の改革開放をしはめて郷鎮の企業が沢山出てきました.私は隣の郷と鎮を行き回して設備の組み立てる事と技術の授業することをやりました.ハハハあの時はまだ学生ですから職場の責任者に賄賂を使って、出欠の調べを通じますが、よく周辺の工場に行きまわしている故.工場に関与され、私に三交替制の仕事を手配してくれて.嫌がるですから力の仕事をやりたくないと思いました.たよりがないのでどうしようかとずいぶん心配しています.小さいから小説≪三国演義≫が好みますからその時三国の筋を研究しはじめました.そして三国の中の計略を使って力仕事をやめて工場の検品者になりました。この間時間の余裕があるのでそして武芸と気功を練習する関係で≪易経≫と≪皇帝内経≫も研究しはじめました.それで中華文化の博大を了解しましたから人生について新しい目標を求めました.検品者の仕事は一年もないし工場の本場に共産主義青年団委員会の書記を取り立てました.そして五年間余やりました.
  この五年の間に色々勉強になりました.たくさんの見識のある人と知り合いになりました、マルクス.レイニン主義と色々な哲学的に関する書類を研究しました.当時私がリーダした若者はハ百人あまりいますから講演の技術も上手になりました.最も意義があるのは私が人生の見地について大変変わってきました.たくさんの問題が哲学からはっきり分かることができないのです.こんなの問題に迷っているとき、≪道徳経≫を発見したので一度この経本に夢中になって深くつきとめました.世の中のあらゆるものをこの本のなかにはっきり述べました.同時に宇宙の真相をよく論述しました.しかしその時改革は深くなっていたから私の工場の体制は変わりました.この五年間に私は共産主義青年団委員会の書記を担当する同時に新昌県の青年の科学技術協会の会長を担当しています.このきっかけで、ある工場は私が販売の主管を担当することを要請しましたから一九九七年に私は前の工場を辞めて新昌ソース製品工場に入りました.
  この年に私は縁組の時期で結婚して息子が生まれました.息子のお陰でその時私は観音菩薩を拝見しました.九八年に妻が子供を孕んで子供が生まれるる一ヶ月前毎朝武芸をしたり駆け足をする習慣で朝早く起きました.あの日は私が時間を間違って朝四時ごろ起きて早すぎのでもう一度寝たんですが寝ころんだばかりでぼんやりで白衣の観音大士がめでたい雲に乗って来て赤い腹掛けの赤ちゃんを抱いて、これは私の息子と教えてくれました.ぼんやりの中で息子だとはっきり見えて、あの子の顔と息子の特徴はよく覚えていました.そして私は観音菩薩を跪拝した後観音菩薩は飛び行きましたと覚えました.その時私は目が覚めまして先に観音菩薩が私だちの息子を送れてきたことを見えたからお腹の中の子供は息子だかもしれないと妻に話しました.妻が息子のほうが欲しいのわけじゃないかと返事してくれましたが、ハハハ……実は私が娘のほうが欲しいと思いますが.信じられないから話しを止めて武芸のけいこしたり駆け足をしました.朝ご飯をするとき私はお父さんとお母さんにこのことを話しかけましたがやはり信じられないのです.後は息子が早産しましたが十五日の早めに生まれて確かに息子です.私はこのことはもう忘れてしまいましたが逆に妻がこのことを思い出して息子を産んでからベットから降りてすぐ赤ちゃんは夢の中の息子とよく似ていますかと私に聞きました.私は似てないと返事しました。三ヶ月の後赤ちゃんは僕たちの代わりに親戚から世話にしてもらうから一週間後妻と一緒に赤ちゃんを見舞いに行きましたがざっとみると夢の中の模様とそっくり似ていると大声を上げました.菩薩がいると思いますが菩薩に跪拝することをしないで焼香することもしないのです. やはりそんなに篤信しないのです.でもその時からなまぐさものをだんだん食べられなくなりました.精進料理を食べたら気持ちがいいからなまぐさものを食べたらお腹がおかしくなりやめました.
私はソース製品工場での仕事は一年もないまたやめました.一九九九年の七月ごろ自分で地方の特産物の商売をやりました。 順調にやってから三年の後資金も貯えたり企業も小さいの店から新昌県の農業企業のトップになりました.そうすると欲望もだんだん高くになって大きくするようにいい加減にあちこち投資しました.間もなく人才と管理などの問題で企業はだんだん欠損しまして、難しくなりました.この間に世の中の寒さと暖かさをずいぶん身に受けました.逆境は人間に問題の考えをさせなければならないのです.ニ零零五年になり田舎町で工場に投資するときもう一人投資し工場を作る人と知り合いました.彼は工場が潰れてかなり悩んでよく私と雑談をします.彼は出家をしようと思いました.このきっかけで私たちは仏教を信仰する人と知り合いまして今の同じ師父の兄弟子も知り合いました.彼女は私を連れて天台山の国清寺に行きました.帰る時、一人の居士に出会った、浄空法師が解釈する≪彌陀経≫を私に贈ってくれました.読んだ後仏法についてずいぶん興味を持っていましたが仏経の原本を読まないと確かに仏陀の声を聞こえられないと思います.
  後の一月に私は天台山の国清寺で上克下慧という首席の法師の所で仏門に帰依しました.誠に正式で三宝に帰依しました.しかしそのときはやはり仏法についてよく分からないです.後はインタ-ネットで石木という兄弟子を知り合って仏法について討議しました.そして今よく泊まっている東岳寺と縁を結びついたのです.石木という兄弟子の関係で≪地蔵経≫を読んだが読んだ後仏法の博大また奥深くて微妙な道理を分かってきました.続いて私がまた≪妙法蓮華経≫にあいまして読みました.この本を読んでから仏法はいったいどんな事だかはっきり分かるようになりました.私は誰かまたどこから来て何処へ行くかということもわかったのです.それから私は常にこの≪妙法蓮華経≫を修業しています.間もなくていずれの経書を読んでからすぐ分かると思って解釈することもできるようになりました.そして神話の中で言われた効能も出てきました。。。
  一年後のニ零零六年から私は会社のすべての仕事を辞めて常に東岳寺に泊まり、修業をしたり仏法を宣伝することをしてきました。。。
 



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