現在、風速44m以上の気象庁の定義による「非常に強い」台風10号が日本に接近しており、西日本を中心にその被害が心配されています。

 

 

それにしても年々その苛烈さを増している酷暑だけではなく、ここ最近多発しているバケツの底を引っくり返したような激しい雨を伴うゲリラ豪雨が昨日はこの西尾張地方にも発生しました。

それと同時に久しぶりの本格的な雷鳴と稲光も起こりました。

僕はちょうど運転中だったのですが、その雨量と勢いでハンドルを取られそうになりました。

関東地方では3日連続でゲリラ豪雨に見舞われ、都心の道路が人間の膝までの高さにまで冠水したり、下水管に流入した雨水で管内の空気が圧縮されてマンホールが引き飛ばされたり、車がマフラーぐらいまで浸水し立往生したり・・、と様々な惨状をニュースで見ました。

国や地域にもよってその様相は異なりますが、この地球上に生きている以上、地震、台風、大雨、土砂災害、火災、火山噴火、熱波、寒波・・が起きることは避けられません。

地球温暖化が根本原因となって空気中の水分量が増えることで台風や大雨の発生頻度が増しているという表面的、現象的な原因は確かにあるでしょう。それを否定するものではありあせんが、本質的な僕の見解は異なります。

 

 

 

 

本格的なAI時代が到来するであろう現今、こうしたロジックは一笑に付されるだけで、何かの宗教思想に毒された決めつけであり、証拠、証明できるものがない非科学的な思い込みだと受け取られるのは仕方がありません。

でもこうした災害の実相は人間の心や生き方(それらの集大成)が深く密接に関わっていることは残念ながら事実なのです。

いつも思うのですが、AIが本当に全能ならば、現時点でのその成果を結集してハード面も含めて災害を回避したりする方策は取れないのかと素人考えですがそう思います。

(たとえば過去の地殻変動やプレートの動き等のデータを集積、分析して巨大地震発生の時期をほぼ正確に予測し、特に被害が甚大になるであろう中心的地域の住民を事前に人間が搭乗できるドローン機で比較的安全な他所へ移動させるとか・・)

でも自然界の動きというものは、そもそもがAI技術の次元を超えたものであるのです。

AIが自然界の上位にあるのではなく、自然界の中の恩恵としてAIは与えられたものであるのです。

(AI技術の進歩がもたらす効率化、分析化、迅速化・・といった人間の生活に資することには大賛成です)

 

 

 

情報化社会の中では人はいろいろなテクニックで表面を糊塗でき、綺麗なラベリングで粉飾できるので一見わかりにくいのですが、表面的な綺麗事とは真逆な、その人間の生き方の基本、本性として「今だけ、金だけ、自分だけ」の生きる姿勢がますます強化されつつあるように感じます。

日蓮聖人の立正安国論の基調である「人心の乱れが鬼神の乱れを呼び、鬼神の乱れが国土の乱れ」を呼ぶ、つまり人間の心や生き方というものと自然界とは密接不可分な関係にあるのです。(専門的には依正不二と言います)

もちろん自然界とそのまま連動するのは装飾した自分ではなく、心と生き方に現れている本音としての自分の有り様です。

雷とは雲の中で生まれた氷の粒がぶつかることで電気がたまり、空気が電気の力に耐えられなくなった時、地面に向けて逃がすとき(放電)に発生すると科学的には言われています。

でもその雲の流れも気圧の変化もすべてがすべて予報通り正確に動いていくものではありません。

僕は何か「天の怒り」のような感覚を覚えます。

 

 

 

 

 

表面の装飾ではなく、人間の生きる姿勢そのものとして「今だけ、金だけ、自分だけ」の思想風潮が増えていけばいくほど、そうした人間の発するエネルギーは自然界からの逆襲をこれからますます呼び込んでいくことになるのは必至です。

(人心の乱れ・国家の乱れが自然界の乱れを引き起こす、という立正安国論の趣意を上述しましたが、このことは戦争の惨禍が大きすぎたのであまり知られていない話ですが、1943年9月の鳥取地震、1944年12月の東南海地震、1945年1月の三河地震、1946年12 月の南海地震、そして1948年6月の福井地震と、戦争末期から戦後の混乱期、つまり国家が大きく乱れていたこの時代にはそれぞれ1000人以上の犠牲者を出す大地震が、5年間に5つも相次いで発生しているのです)

 

 

 

 

地震でも津波でも土砂災害でも、それらに被災してしまうのかどうかということに関したら、これは究極的には宿業(カルマ)に関係してくるものです。

業因縁に左右されることが根本の理由なのですが、それでもそうした危機を事前に回避すべく、たとえば大地震に備えて簡易トイレとパーソナル太陽光充電器とか、無洗米・水等を準備し、逃げ場所を想定しているということをしていた人はそれもひとつの縁となりますので、たとえ災害が起きた時でも被害は確実に小さくなります。

因と縁は固定されたものではなく、生命の活動と共に常に流動中のものであるからです。

一番ヤバいのは心構えも準備も何もせず、「大震災なんて来ない、来ない・・」とのんきに構えている人です。

事前予測して備えるという心(行動)という因(縁)は災害を回避できる流れを呼び込むものです。

たとえ震災に襲われても事前の知識と心構えと準備をすることは、それだけでも大きく変わってくるものです。多数の住民がそうした対処をすれば震災を回避できる可能性もあります。

ただ大震災を予測して行う食料や水の備蓄とか、寝袋や携帯充電器の準備とか、逃げ場所を決めておくとか・・、いろいろありますが、それも限度がありますし、環境的にそれをしようと思っても(たとえば築100年以上の古い木造家屋に住んでいる高齢者)できない人だっているものです。

 

 

 

 

警戒とそれなりの準備は必要ですが、私達が命を落とすきっかけになる要因は何も大震災や津波、土砂災害だけではありません。

突然、身体の違和感に気づいて病院に行ったらステージ4の胃がんだった・・と診断され、数カ月で亡くなってしまう人もいるぐらいで死は何も震災等の災害だけではなく、事故だってそうですが、どのような形であれ、私達はいずれこの世を去っていくことになるわけです。

実際、大震災だけに神経質なまでに完璧な備えをすることは不可能ですし、無意味だと僕は考えます。適度な心構えと準備で良いと思います。

僕の立場から言わせてもらえれば、それよりも日頃の信仰で積善功徳を行うことが肝要です。

 

 (つづく・・・)