寿量品自我偈の最後の「以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」に示される本仏釈尊が私達衆生を仏身(成仏)せしめたいという大悲願の御文、方便品における釈尊(仏様)がこの世に出現された一大事因縁は諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」の開示悟入の四仏知見の御文を代表として教示されている通り、法華経が説かれた理由と目的は私達一切衆生の成仏(悟りを開き、生命が開花した最高の境涯)にあることは論じるまでもありません。

このことはまた法華経だけに限ったことではなく、仏教が説かれたそもそもの目的です。

 

 

私達は永遠の生命において輪廻転生する中で魂の進化向上をその身体精神構造に組み込まれた存在であり、業カルマを繰り返しながらも、無意識において常に成仏への希求心が備わっているのです。

これは空理空論の言葉ではなく、否応もなく、意識無意識に関わらず私達はそう宿命づけられた存在であるのです。(その働きを仏性と言います)

前世からの業因縁を抱えながらも、その果報が必ず現れるという因果の理法のシステムこそがこの成仏への方向性を目指す中に人間生命が置かれていることを雄弁に物語っています。

成仏(魂の成長)というのは私達が目指す究極の目的であり、方向性ではありますが、それは果たして結果であるのでしょうか。

この世に肉体をもって出現され、仏身を具現化された釈尊のお姿から考察すると、確かに完成形(完璧なゴール)ではあります。

しかしこの世で釈尊以外に人間で仏身を具体的に成就した人はいません。

 

法華経は成仏への道筋を「従果向因」という教えで説明しています。

不完全から完全を目指していこうとする「従因向果」ではなく、すでに本来完全な状態からよりその状態を輝かせて上積みしていくという「従果向因」を教えるのが法華経です。(「従因向果」も肯定して包含したのが本当の「従果向因」です)

修行の最終目的として悟りを得、仏身を完成(魂を進化)させるということは無論大切です。

しかしその目的(結果)を目指しながらも、その過程(努力・希求)こそが最も重要なことであり、それこそが成仏の姿であるという思想に転換したのです。

目的(結果)を目指すその過程のプロセスである、正しい一歩一歩が(たとえ現象的には不完全で矛盾に満ちていても)それ自体、完成形であり、完璧であり、その過程そのものが成仏であるという地平を示したのです。

私達の生命は常に動であり、ダイナミックに変化躍動しています。

生命に結果はありません。

生まれ変わり死に変わりを続ける私達の生命は、その本質から言って、常に過程の中にあるのです。

私達は生きている中で大事小事の何事によらず、何かの目的を持ち、その目的を達成するために努力します。

その目的を達成することはもちろん大切ですが、大事なのは目的に向かって懸命に努力することです。(それであってこそ結果は自ずと得られるものです)

成仏という到達点(ゴール)への階段を幾世もの生まれ変わりを繰り返しながら登っていくことは(それも一歩前進二歩後退の凡夫の有様として)、「日暮れて道なお遠し」の落胆と絶望を生み出すしかなくなります。

言い換えるとそれは成仏(完全)に向かっての「今」が常に完璧であり、最大事であるということを法華経は教えているのです。

人生において時には失敗もするし、恥もかきますし、負けることだってあります。

でも自分として前を向いてがんばったことは決して「無駄な苦しみ」でもなく、「意味のない理不尽な困難」でもありません。法華経諸法実相の見地(つまり真理の観点)から言えば、「それは業カルマを解消転換している真っ最中のそれ自体が確実に前に進んでいるプロセス」であるのです。

これは間違いありませんから私達は決して不幸の只中にあっても絶望する必要はないのです(言葉では簡単に言えるものですが)。

 

 

 

 

過去世からの業因縁がどれだけ甚大であろうが、今が90歳の病床の寝たきりの身であっても、つねに気持ちを新たに真っ新な「今」を無心でとらえてまいりましょう。

そして不完全、かつ業カルマにまみれたその状況の中で自分のできることを一生懸命頑張っていくことです。

今は業因縁によって規定されている今ではありますが、その業因縁を包含する形でより基底に厳然と存在する今という瞬間はまさにその瞬間自体が「成仏」の完成形なのです。

結論的に言えば、成仏とは結果ではなく、一瞬一瞬の業との闘いそれ自体の中に発現するダイナムイムズであるとするのが法華経の真理です。

有限と無限を二元化する古い固定観念を打ち破るのが法華経であり、如来寿量品は久遠の釈尊の寿命は永遠であり常住であるけれども、有限で無常のお姿でこの世に出現されたと説くのです。

つまりこのことは「今」という時間は一切の過去世と一切の未来世を含んだ永遠(無限)

であるということ。

「今」の一瞬しか「永遠」に触れることはできないという釈尊はお示しであるのです。

このことは私達にとって何という救いでしょうか。

私達はいくら業カルマに翻弄されている今であっても、その今は永遠に通じる今(つまり完全で本質的な救いの中にある今であるのが真実です)

たとえ自分の置かれた今が表面上、現象的には大火に焼かるる状況の今であっても、我が此の土は安穏であるお釈尊が仰られている通り、完璧な「今」であるのです。

だから私達はできるだけ過去の後悔や未来への不安にとらわれず、大安心の中で今の環境と向き合っていきましょう。

完璧な「今」を前向きに進む、それが南無妙法蓮華経の精神です。

 

 

 

 

私達は生まれ育った環境や過去からの人生の中にあって、行動や考え方がいつの間にか習慣化し、枠をはめ、それから出ようとせずに、小さく縮こまっているような性向になりやすいものです。

特にスマホひとつで世界と繋がる今日の時代は、逆に自分の世界が狭くなってきているように感じます。

自分の興味や関心がある動画、情報など検索ワードに基づいたものばかりが目に入り、それによっていつの間にか視野が狭くなり、客観的に物事が見られなくなるような人間生命の本来の姿から逆行させようとする懸念があります。

仕事においても、人との関係においても、生活においても、どれだけ頑張ってみたところでムダだから、失敗するから、上手くいくはずがないから、もう年だから止めよう・・・という自己規制、諦め等、いくつもの枠を無意識であっても、自分で自分にはめてしまっていることが多いです。

あげくに不平不満が先立ち、己の至らなさを棚に上げ、他人や世の中のせいにしがちなものです。

生き方が枠にはまっているならば(生まれ育った環境や人間関係の影響が大きいですが、究極のところ、自分が自分にはめている枠に他なりません)、その枠に気づいて外しましょう。

枠に気づいて外していくことも魂の成長につながっていきます。

そして日常のささいなことで、それがムダであっても、高齢であっても、やるべき時、やるべきことには挑戦してみましょう。

それが久遠の釈尊が現今に生きておられる「今」という瞬間の尊さを生かしていく生き方であるのです。