(・・・先回のつづき)

お釈迦様は法華経方便品で「諸法実相」「法住法位」というこの世界のありのままの真実を顕わし、同時に衆生の本来有している仏性を開花せしめんとするためにこの世界に出現されたことを宣じられます。

 

 

方便品の有名な文として「法は常に無性にして、仏の種は縁にしたがって起こると知り、この故に一乗を説きたもう」とあります。

私達は仏性を持っている、あるいは前世からの深い業を背負っていると言っても、その本性は常に無性であり、良く悪くもどのようにも変化するのもであるから、善心、つまり柔軟心で求め続けることが大切であると教えられるのです。

柔軟心とは一切の慢心を捨てた素直な気持ちのことです。

(この法華経の求める柔軟心の権化のような人物が今や世界的な大スターとなっている感があるドジャースに移籍したあの大谷翔平選手のように僕の心眼には映ります)

 

 

 

 

そしてその出発点としてその説法の座に相応しくない心性を奥に有する類の衆生を釈尊は見抜かれ、それを釈尊からの強制ではなく、彼らが自らの意志でその場を去るように場の設定をされたのです。

「この語を説きたもう時、会の中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の五千人等ありて、即ち座より起ちて仏を礼して退けり。所以(ゆえん)は如何。この輩(ともがら)は罪の根深重、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂えり。かくの如き失(とが)あり。ここを以って住せず。世尊は黙然として制止したまわず。その時、世尊は舎利弗に告げたもう『我が今、この衆には枝葉なく、純に貞実なる者のみあり。舎利弗よ、かくの如き増上慢の人は退くもまた佳(よ)し』」。

釈尊の筋書きの凄さ、見事さはここにも現われており、ただ脱帽するしかありません。

この5千人の増上慢は釈尊の尊い説法を聞くこともできず(説法の始まる前に)、この場を去っていったのです。(去らざるを得なかったというのが真相でしょう)

ちなみに慢心(増上慢)やうぬぼれがいかに成仏(救い)の道から人間生命を遠ざけていくか法華経は勧持品に説く三種の増上慢の中の「僭聖増上慢」が悪鬼入其身(悪鬼は其の身に入る)ことを教えているぐらい、驕り高ぶった慢心が命を汚していくものであるかを説くものです。

財産や肩書、地位や学歴、容貌、家族の絆帯、人脈の広さ等で他人より秀でていると(自分で思っており)、それをどこかで自分の心のよすがにしている人は特にこれからの時節では要注意です。

東京大学という日本最高の学歴があれば、そのことだけで慢心し、多くの人間の上に立ったという切符を手にしたつもりでも(それも単なる思い込みに過ぎませんが)、実際、社会に出てみると現実は競争も激しく、人間関係の厳しい問題も多く、学歴だけでどうにかなるものではありません。

釈尊の教えておられる「生老病死の憂患」の本質的な苦の前では学歴や地位など何の役にも立たないものです。

業因縁があれば、お金があればあったで苦しみ、お金が無いなら無いで苦しむのが人間の実相だからです。

現在の社会において長年隠されてきたものが露見し、混乱している昨今の状況はある意味、「五千起去」の如く、厳しい自然界の峻別のように私達に今後の生き方を激しく迫っている姿であるのです。

 

 

 

僕は釈尊の説かれた仏教とは現代のネット社会、SNS社会の大量の情報に溢れている浅薄な次元の言葉や知識ではなく、「生きる知恵」そのものだととらえています。

一つの例で言いますと、インドの従前のバラモン教にあった前世からの因と現世での果をストレートに結びつけて考えていた風潮(宿命論・運命論)を否定し、因の存在は認めつつも、釈尊は因と果との間に「縁」という概念を悟られ、初めてそれを示されたというように、仏教はありのままの人間の生きる姿に立脚しています。

表層的な言葉の羅列ではなく、根本的であり、本質的であり、行動実践をともなった深い智慧なのです。

そしてその仏教の理解(体得)には素直な柔軟心や行動に現わしていく身体性が不可欠となります。

法華経が私達に求めているのはまさにこれなのです。

 

 

 

 

現実を生きる人間の立場に立脚して教えを説かれた釈尊が私達を苦しみから脱却させるために説かれた「縁」という概念は実に重要です。(その縁を引いてくるのは一人一人の心や生き方でありますが)

結婚を前提に交際していた女性に振られた、その女性は他の男性とも二股で交際しており、時間の経過の中でそれぞれの条件面での値踏みをされて結局、他の男性を選んだため、別れを告げられ、振られてしまった・・、とします。

「自分は貯金も少ないし、勤務先も中小企業で将来の出世も望めない、次男だから親との同居はないとは言っても、背も高くないし、容姿もあまり良くない・・、だから結局振られたんだ・・」と普通は考えるでしょう。

確かにそうした条件を相手の女性は考えていたことでしょう。

しかし真実(実相)は違います。

そうした条件は二義的、三義的な理由で、根本は「縁」がなかった(結ばれる縁がなかった)

ということが本当のことなのです。

 

 

ですから「自分は収入がすくないからとか、顔が悪いからとか、学歴がないから」という表層的な問題で自分は劣っていたのだと考えて傷つく必要なんて全くないし、それは実にバカげた思い込みであるのが因と縁から導き出される正しい考え方です。

(もちろん自分が劣っていると感じた要素があればそれを矯正し、改善していく努力は大事です)

その期間の長さや思い入れの強さにもよりますが、交際していた相手と結ばれなかった場合、結局相手に選ばれなかったという自分の価値を疑ってしまい、自暴自棄になってしまう人もいるかもしれません。

でも真実は釈尊が説かれているように、結婚(他のものも)は縁なのです。

縁(因)が収入が少ないとか、容姿が悪いからとか、条件を超えて先にあるのです。

つまり振られたことはその人自身の価値とは何の関係もないということなのです。

ましてやその縁が良縁とも限りません。結果的に自分にとって悪縁だったかもしれません。

失恋も離婚も因縁です。何事も因縁であるのです。

何事も因縁であるからこそ、私達はその自身の因をより良くしていくための智慧を持ち、良い縁と合致できるよう、生活する中で我が身を律していきましょう。

 

・・・(略)・・・

 

 

あの大谷選手のような、思い込みやとらわれや慢心のない、いかにも素直で、柔軟な心で唱えていきたいものです。

 

もうすぐ新しい年が来ますが、時代は情報化がより発展展開されることになりますが、それとは逆に私達はより自身のカルマの因と縁と向き合う時代に入っていくものだと感じています。