作家の立原正秋は食通であった。

網によって獲られた鯵と釣り鰺の味の違いを識別する事が出来たという。

立原は包丁も達者で、幼馴染の妻からも、何処で習ったのかと首を捻る程、不思議がられた。
吉兆で会食がある際は、数時間前に厨房を訪れ、板前にあれこれと指図したという。
板前さん達もさぞかし閉口した事だらう。
その食通の立原は家庭でも一切の妥協をせずに、納得の行く料理を出させたという。
夫人の苦労が偲ばれるではないか。

ある時はちらし寿司の鯵が大きくて「まずまずしくて食べられない」と鯵を放り投げたという。
そんな食通の立原は家では何を食べていたのだろうか。

朝飯は10時から2時間をかけたという。
先ずは小瓶のビールを一本呑む。
それから食事が始まる。

鯵の干物や糠漬け、味噌汁等、普通の朝飯である。

しかし、吟味に吟味を重ねた素材を使い、調理にも細心の注文を求めた。
腰越に住んでいた頃は漁師から鯵や栄螺などを買って帰り、それを酒の肴にしたという。

時化の日は魚が揚がらないので、そんな日はステーキを焼かせた。
朝飯が昼飯兼用なので、昼飯は抜き。
晩飯には特に拘ったようだ。
その為に学校帰りの娘はデパートなどに買い出しに行かされたという。

刺身は昆布締めにしたり、たたきにしたりして、一手間をかけさせた。
酒は三千盛。
甘い酒である。
それを肴に酒を呑み、最後に糠漬けと味噌汁でご飯を食べたのだろう。
朝飯同様に、そんなに贅沢な食事ではない。
当代随一の流行作家であった立原はもっと贅沢な食生活を送っても良さそうなものだが、苦労人の立原は、そんな食事には興味を示さなった。

立原は家族が寝静まった深夜に夜食を作った。
白菜やしらす干しを煮た簡素な雑炊。
出来上がると家族を起こして、それを食べさせたという。
寂しがり屋なのである。

立原は雑炊を啜りながら酒を呑んだ。
確かに出汁の利いた雑炊は日本酒の肴になる。

こうして立原の食卓を見てみると、こけおどし的な豪華な料理は一つも出て来ない。

しかし、素材や調理には徹底的に拘った。
これこそが、真の食通だろう。
しかし、こんな食生活を支え続けたご家族は大変なご苦労だった事であろう。
超亭主関白だった立原は亡くなる直前に妻に「すまなかった」と謝罪したという。

立原は超亭主関白だったが、照れ屋で寂しがり屋。
典型的な昭和一桁の男だったようだ。
立原は出自の問題もあってか、短気で人と衝突する事も少なくなかったが、腹黒い男でも、小狡く立ち回る男でもなかった。
残されたご家族は立原との暮らしを懐かしく思い返しているという。