結婚直後に漱石がロンドンに留学した際にも日本で極貧生活を耐え抜いた。
正に女傑である。
高浜は洋食の出前である。
普通なら出入り禁止だろう。
正にやりたい放題。
普通の女性ならぶち切れている。
岩波書店の会長だった小林勇は書店員だった頃に鏡子婦人と何度か合っているが、話をしなくてもさっぱりとした気質だと思ったと語っている。
岩波書店が大出版社に成長したのは夏目漱石全集を出版する事が出来たからである。
しかし、漱石全集の編集を担当した小宮豊隆は日記や書簡を全集から除外している。
それは鏡子婦人を傷つける事になるのを憂慮したかららしい。
その伏せられた日記を岩波書店が後に発表した際にも、鏡子婦人は小林勇に「原稿料ありがとう。面倒だから読みません。どうせ私の悪口が書かれているのでしょう」と電話して来たという。
実にさばけている女性ではないか。
漱石亡き後も小宮は仙台から上京すると必ず夏目家に泊まった。
そして夏目家では鏡子婦人に浴衣を着せてもらい、自分の家にいるように振る舞ったという。
このエピソードからも鏡子婦人の大らかな人柄が偲ばれるではないか。
しかし電話ではなく、三千代夫人にそば屋に注文に行かせたらしい。
10人前位にしておけば良いのに馬鹿正直に三千代夫人は百人前を注文したのである。
作家の妻とはこれ位腹が太くないと勤まらないという事か。
どこが不仲なのだといいたい。
母に愛されなかった漱石にとっては鏡子婦人は妻であると共に母でもあったのである。