御三家の中では一番の高級店。
松尾食堂と月ヶ瀬は和食の店で主に監督が利用した。
松尾食堂は渋谷実と木下恵介が居城としていた。
月ヶ瀬は小津組のスタッフは小津に遠慮して訪れる事は少なかったが、松尾食堂は渋谷組、木下組のスタッフも入り浸っていた。
この和室を巡って渋谷と木下が不仲になったという。
戸田家の兄妹の撮影では朝昼晩と深夜食を食べに訪れたという。
小津は「深夜食はこれが楽しみだ」と若菜さんに語っていたらしい。
それにしてしも夜中の2時に来て深夜食を注文するとは、小津も他人の迷惑を顧みない人だったようだ。
これは小津だけではなく大船撮影所の映画人全般に言える事。
ツケは溜めるは、踏み倒すわ、食堂の空き部屋には泊まり込むはと正にやりたい放題。
その後渋谷はミカサに居城を移した事も高菜さんには面白くなかったようだ。
木下は温厚な紳士だったようだ。
松尾食堂のライバルは月ヶ瀬。
そこには激しいライバル意識を感じさせる。
小津が松尾食堂から月ヶ瀬に居城を移した事を若菜さんは残念に思っていたと述べている。
小津と亡くなった若菜さんの父が非常に仲が良かったらしいのだが、その父が亡くなったからなのか、それとも益子を見初めて月ヶ瀬に通うようになったのかは、今となっては分からないが、おそらくその両方だろう。
千葉伸夫著「小津安二郎と20世紀」を読んでいたら、小津が月ヶ瀬に通い出したのは1947年の長屋紳士録の試写以来の事らしい。
この中で益子のハッキリした現代性、思慮、若さ、京言葉が小津の目に留まったと指摘されている。
益子は戦後小津が描こうとした若い女性のモデルなのだろう。
小津は終戦後しばらくの間は松尾食堂に通っていた事になる。
松尾食堂ではどのような料理を出していたのか。
基本的には和食。
上原謙は鮭茶漬け、佐野周二はトンカツ、吉川満子は松茸の季節には毎日松茸料理、坪内美子は牛鍋と何でも作って出していたようだ。
店主自慢のメニュー高級カレーもあり、普通の店の2.5倍の値段がしたそうである。
松尾食堂は大衆食堂ではなく、味の店と自負していたようで値段も安くなかったという。
それでもツケの回収も思いに任せず、店の経営は火の車。
よく営業を続けられたものだと思う。
それにしても当時の人間関係の濃密さには驚かされる。
食堂と松竹関係者は親戚よりも深い付き合いをしていたようだ。
松尾食堂は映画界没落していく最中の昭和48年に閉店。
今では跡地にはマンションが建てられている。