こんばんは!!つくしです!!
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犬猫





12年前の11月…私の人生において 大きな出来事が2つありました。



1つ目…。
それは12年前の11月2日の夜。
当時働きながら専門学校に通っており 試験が一段落したので友達とファミレスで食事をしていました。
その途中で左側の口角あたりに 軽い痺れを感じました。最初は 疲れているからかな?って思ったけど その痺れが少しずつ下に下がって行きました。
私は もしかしたら 頭かもって思い 友達と店を出て車に戻りました。
私は友達に救急車を呼んで!と頼み、救急車が来るまでの間 左手をつないでてもらった。
左側の感覚が少しずつ無くなっていった。
救急車の到着が物凄く遅く感じた…。
サイレンの音が近づいて来た時には つないだ手の感覚が完全に無くなっていた。
救急車で自分の勤務している病院に搬送して下さい…と頼んだ。
血圧が200以上/100以上だったと記憶している。
その時…あぁ…明日の早番行けない…どうしようって考えていた。
高血圧性の脳出血の発症だった。
出血部位は右被殻出血で脳出血の好発部位。

ICUに2日いた。
夜勤は仲のいい看護師だった。
私は尿道留置カテーテル(バルーン)を入れてって言ったのに…尿意があるのに入れられない。尿器で採るから大丈夫だと言われた。入れたくないって言ってくれたなぁ…。
左手左足が全く動かなくなっていた。ただの棒のようについているだけだった。左の口角からは唾液が流れていた。
左片麻痺の始まり。

目が覚めた時に 枕元には ぬいぐるみやピンクのパジャマやタオル類だの 入院に必要な全てが揃っていたっけ。全部 仲間や師長さんが用意してくれた。本当に有り難かった…。
その頃 母は既に他界していたので 父はパニックで役立たずだったらしいえー
同じ病棟で勤務していた仲間が休み時間に様子を見に来てくれたのだけど…師長さんが再出血するのを懸念して 私を個室に移して面会謝絶になってしまった…アセアセ
それから半年…リハビリ目的で入院していた。
当時 私と息子は 2人でアパートに住んでいた。息子は高校3年生で しばらく1人暮らしになってしまった。
その当時は 風太と蘭が居た。
この子達の お世話は当時10年お付き合いしていた彼にお願いした。
私が猫を飼うきっかけは その彼だった。
彼の家にはペルシャの夫婦がおり ちょうど仔猫が4匹生まれて可愛いくて仕方なかった。彼は1匹も手放さなかったのだ。
そのペルシャ夫婦の雄猫のヤサイって名前の子が本当に性格が良くて 私が彼とケンカして泣いていると いつも そっと側にきて慰めてくれた。
風太は そのヤサイの性格に限りなく近い。

私が障害を持つ前の姿を知っているよねおねがい
左手の感覚が無くなって…風太と蘭を撫でてもフワフワの毛の感触がわからなくなってしまったんだという事が悲しくて仕方なかった。
とにかく絶望しかなかった…。

ほどなく学校への復帰の目処が立たない為 先生達と相談して休学する事になった。

いつか仕事にも学校にも復帰が出来る事を目標にST、PT、OTの方達とリハビリを とにかく頑張って頑張って頑張りぬいたウインク
毎日 リハビリの先生が私を笑顔にしようといろんなDVDを持って来てくれたり励ましてくれた照れ

リハビリ病棟に移った時に脳梗塞を発症した高校3年生の可愛い女の子ゆかちゃんが入院していた。
その子は いつも笑顔で明るくてリハビリも人一倍頑張っていた。彼女も 学校に戻る為に必死だった。彼女は右麻痺で私が左麻痺。2人で片手でブラジャーをつける方法を考えたり 装具をつけてもお洒落できるのかを考えたりしていた。
まだ17歳の彼女が頑張っているのだから私も頑張らなきゃって 本当に励みになっていた。
…でも 彼女は高校を中退する事を選んだ。
自分のできる事を探す為だよって笑顔で言っていた。本当は泣いていたんだという事は知っていた。無理に明るくしていたよね…。


病気になって 1人で生きていたんじゃないという事を実感し、みんなの優しさが本当に本当に有り難かったし支えてもらった。
今も1年に一回MRIを撮って脳の状態を診てもらっている。
これは2019年11月8日のもの。
出血した痕には 水が溜まっている。先生曰くかさぶたみたいなものだって。




そして2つ目は私の親友の陽子の事…
私が脳出血を発症する2年前に乳癌と診断され闘病をしていた。
秋葉原駅の近くの病院に入院していた。
 彼女には3歳の息子が居たので 子供の為にも前向きに頑張っていた。
抗がん剤で抜けてしまった髪の毛もウィッグをつけて 似合うでしょ?って言ってたね。
全摘した乳房の再建をするクリニックにも一緒に行った。

私と陽子は高校の同級生。
ずっと家族ぐるみの付き合いで我が家の旅行には必ず陽子が居たし 息子の事も本気で叱る 唯一の存在だった。

私が入院して2週間くらい経った頃に陽子から電話が来るようになった。だいたい真夜中…。
彼女の旦那さんがいろいろ調べて京都の病院に入院して免疫療法を受けていた。
私は 陽子には入院した事は言わなかった。

その日の夜は消え入りそうな か細い声だった。
「つくし…私…もう…ダメかもしれない…。
つらいよ…私…」
泣いていた…。信じられないほどの弱々しい声だった。
私は「そっかそっか…。でも ダメだよ。亮太の為にも生きなきゃ!あきらめちゃダメだよ。」
ずっと泣いてた。
私も泣いていた…。

それが陽子と話しをした最後になった。
あの声が今でも耳に残っている。
11月23日
38歳で陽子は逝ってしまった…。
御主人から連絡をもらった時 あまりのショックで気がおかしくなりそうだった。
まだ外出等出来る状態ではなかったけど主治医に 親友のお葬式に行かせて欲しいと泣いて頼んだ。

私は車椅子で葬儀に出席した。
ふっくらとしていた陽子が まるで別人のようにガリガリに痩せ細って棺の中に眠っていた…。
頑張ったねって話しかけて 陽子の頬を撫でた。

その周りで 無邪気に駆け回る亮太の姿を見て号泣した。
ママが死んだ事がわからないんだよね…。
3歳だもの…。

そして陽子の お母さんから…
「あんただけでも 連れてかれなくて良かった。頑張って体治すんだよ!」
と私の肩をさすり泣きながら言った。

大好きな旦那さんとやっとやっと結婚して 亮太が生まれて これからもっともっと幸せになるはずだったのに…。
やっと ママになれたのに。
乳癌が憎いと思った。
母も そして陽子まで…
なんでなんでなんでだよーーームカムカ

陽子とは、いつも お互いの家を行き来して いろんな料理を作っては ワイワイしながらワインを何本も空にしていた。
私の家でゴルゴンゾーラのペンネを作った時に 後から帰って来た お母さんに 臭い臭いと怒られて お腹が痛くなるほど笑い転げたっけ…爆笑あれから我が家はゴルゴンゾーラ禁になったよね笑い泣き
毎年あけぼの山公園にお花見に行った。いつも2人で手作りのお弁当を持ってった音符
思い出をあげたらキリがない…。

陽子の家にも猫が居た。ペルシャのナナちゃん。
私と息子が遊びに行くと押入れに入ってしまって触る事は滅多にできなかったニコニコ

もう少しで陽子の命日…
御主人は数年前に再婚した。亮太に お母さんが出来た事を陽子は どう思ってるんだろうかっていつも考える。

私は 2年後に学校に復学した。
本来ならば休学できる期間が1年だったのだが 学校長が病気の場合は期間を延長できるようにと校則を変えてくれたのだ。
障害はあるけれど みんなに助けてもらい なんとか看護師の資格を取る事が出来た。
もしも あの時に諦めていたら ずっと病気のせいでやりたい事が出来なかったという思いを持ち続けて生きていたはずだ。
それだけは絶対にイヤだった。
陽子に胸を張れる人生にしたかった。
今もきっと見ていてくれていると思うから…。
いつか再会する その日まで精一杯生きるよおねがい


退院後 休学している時に あーちゃんに出会った照れ
そして復学した時にモミちゃんに出会った照れ
病気をしたおかげで出会えた命。
運命だったんだよねお願いきっと…。


あーちゃんハート

モミちゃんハート
 


準人ハート


小夏とつくしハート

パピーのつくしラブ
ちっちゃい照れ

小夏…準人…つくし みんなに会えたのも運命照れ

11月になると毎年 心がザワザワするのは 大きな出来事があった事を思い出すから…。
忘れてはいけない思いがあるから…。
そしてまた初心に返る私。


いつか書こうと思っていた事を今日書く事が出来ました。




最後まで 読んでくれた方…
本当にありがとうございます。



病気と闘う小さな命…
それを支える ママさん、パパさんに元気玉を送ります!!
届け!!元気玉!!
犬猫ねずみうさぎ