物心ついた時から、母と2人暮らし。
母子家庭育ちの私。
母が普通じゃないことは、幼いころから薄々気が付いてはいた。
私に対する異常な執着
友達と遊びに行けば、勝手に尾行され、母の気にいらない友達が遊びに来れば追い返される。
大学になっても1人暮らしは許されず、大学から1時間30分ぐらいのところにある母の弟の家に無理やり下宿。
叔父の家も広くないし、当時年の離れた従妹が生まれたばかりで、私に1部屋というわけにはいかず、7畳ぐらいの部屋に従弟は2段ベッドで、私はそのわきで布団を引いて寝る
大学生になっても、クラブ活動、アルバイトは禁止され、夕方ちゃんと帰ってきているのか確認の電話(当時、携帯電話はそんなに普及していなかったし、持っていなかったので固定電話)
電話にでないものなら、5分おきに何度もかけ直す様子が留守電に記録される。留守電のテープが切れるまで
そして、毎週末になると叔父の家にノーアポで襲来。私を見張るために。
食べきれない迷惑な量のお惣菜をもって、無理やりおしつける。叔父夫婦苦笑い。
毎週末、片道2時間半かけて。
私は外出するわけにはいかない。
そんなことして毎日押しかけられたら
いわゆる過干渉、過保護型の毒親。
でも、当時は毒親なんて言う言葉もなかったし、家庭内の虐待が問題になることもあまりなかった。
ましてや、過干渉、過保護も虐待になると理解している人は、今でもどれだけいるだろう。
中学生までは、母と2人暮らしだった。
高校に入学と同時に、脳梗塞で倒れ寺の住職を務めることができなくなった祖父が、寺を他人に譲り、祖母と母の妹である叔母を連れて家で同居することになるのだが、これでさらに実家は地獄とかす
祖父母達と暮らして分かったこと。
祖父本人も、過保護、過干渉タイプの毒親である。
それに対して祖母は、普通の感覚に思えたが、祖父の暴言により逆らうことはできない感じだった。
祖父は自分の思い通りに家族をコントロールしたがっていた。
そして、祖母、私の母、叔母は祖父の機嫌を損ねないように、祖父におびえながら生活していた。
私は、実家にいる時は自分の部屋に閉じこもり、なるべく外にでないようにしていた。
なるべく被害をこうむらないように。
母の妹である叔母は、若い時から精神病院に通院していて、毎日大量の薬を飲んでいた。
私は、幼いころから1度も彼女のいい状態を見たことがない。
彼女の口から出るのは、自分がどれだけ不幸で可哀想か。
そして、他の人への嫉妬、妬み。
1日中それをぶつぶつと繰り返す。
ふすま1枚隔てた隣の部屋から聞こえてくるそれは、私の精神をよりえぐった
しかも、なんの断りもなく開けられるふすま。
一言もしゃべらずまた閉められる
色々嫌になった私は、この頃リストカットを繰り返す。
でも、自分でも分かっていた。
死ぬほど深い傷をつける勇気はないことを。
でも、手首ににじむ血をみていると、少し心が軽くなる気がした。
手首の痛みで、心の痛みを忘れることができる気がした。
つづく