民主主義のコスト=福島県民の被曝?
『福島原発を巡るこれまでの国や東電の対応は、ノロノロで、まどろっこしくて、杓子定規で、どう考えても変だ!!』
博識ある国民の皆さんは、色々な疑問を感じていると思います。
なぜそうなってしまうのか。
私にも、色々と思い当たることがあります。
今日は、そのうちの1つをご紹介します。
日本は、民主主義に基づく法治国家という建前を取っています。
行政を担うお役人は、法で決められたことのみを粛々(しゅくしゅく)と遂行することを求められてしまいます。
『法的な根拠のないことを行ってはいけない。』
これ自体は、長い人類の歴史の中で出来上がった『人権を守るための安全装置』ですので、とやかく言うつもりもありません。
世に言う「民主主義のコスト」という代物です。
官僚は、一義的には、やはり、法律・規則・規定に忠実に行動しなければなりません。
もし、明確な根拠がない場合には、前例に従っていれば「お咎め」がありません。
「お咎め」が無いとは、「我が身に責任が降りかからない」ということです。
ですので、常識ではおかしいと判っていても、簡単にやり方を変えるわけには行かなくなります。
ところで、お役人の行動は、全て法的な根拠に基づいているという「建前」があります。
従って、何か問題が起きた場合の責任の所在は「法」または「法を作った立法府です」という発想になります(政省令、通達等がありますので、境目は曖昧ですけど)。
そして、社会人になってからずっと、そのような思考回路・行動に慣れきってしまっています。
こうして、お役人が動かしている国の対応は、既定のことは機敏に対処されますが、それ以外のことは臨機応変に対応できず、ノロノロで、まどろっこしくて、杓子定規になってしまうわけです。
弁護する気は毛頭ありませんが、「事なかれ主義」が蔓延するのも無理ありません。
もちろん、行政の最高責任者である内閣総理大臣が優秀でリーダーシップを発揮できれば、話は別です。
優秀な指揮官がいれば、官僚機構は、精密機械やコンピューターさながらの正確さで動き始めるでしょう。
ただ、残念ながら、「日本国という巨大ジャンボ旅客機」で「内閣総理大臣というコクピット席」に座っていた方は、操縦に不慣れな上に、ど近眼と老眼と乱視と色盲という四拍子揃ったウツケ者で、日本という国の状況も、災害の状況も、原発の状況も何も見えていなかったし、推測する能力も全く持ち合わせていなかった。
その結果、巨大ジャンボ旅客機のエンジンを逆噴射して、国内だけでなく国外にまで二次災害(菅災)をまき散らかしてしまいました。
原子力安全・保安院はこの大混乱の中で「これ幸い」とばかりに『自分たちの保身』を最優先課題として、原発対応に取り組むことができたわけです。
東電も似たようなものでしょう。
そして、普段であれば、マスコミがその辺の問題点にいち早く気付いて、鋭い突っ込みを入れていたはずです。
ところが、大手マスコミは、電力会社と癒着しています。
マスコミにとって電力会社は莫大な広告料金を支払ってくれる上級大口顧客ですから、できるだけ穏便に報道しようとします。
マスコミの幹部社員は、個人的にも、色々と美味しい思いをさせてもらっているので、尚更です。
最近は、国民の皆さんが事態の重大性を問題視し続けた圧力に屈して、大手新聞社やテレビ局においても、徐々にまともな報道が散見されるようになってきてはいますが・・・。
前回、「独り占めすると必ず弊害が起こる」というお話をしました。
同様に「癒着すると必ず弊害が起こる」ということも、やはり古今東西を問わない「普遍の事実」だということですね。
さて、これらに関連して「私が日頃感じている"仮説"」があります。
長くなりましたので、続きは、次回。
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