夏の歌は恋を賛美したり 謳歌したりする歌が多いのに、秋になると明らかに別れの歌が多くなってくるんだろう?とふと疑問がおきました。

みんながみんなキリスト教信者でもないのに12月のクリスマスを決まった彼と過ごすために、夏の一過性の恋をやめ、真面目な恋愛を追いかけ始めてるようで…。
寂しいから恋をする人もいれば、一過性だから愛なんだと言い切る人もいれば、見てるだけで心が震えるという人もいたりして。


ファッションと一緒で恋を重ねていくことで、多少は表現力は増したり、早とちりや間違いをしないかと思われがちだけど、恋は気づいたらもう落ちてしまっているものだし、修正ってそんなに器用にきくものだろうか?と思ったんです。


恋愛の捉え方やハッピーエンドは本当に人それぞれで、究極、終わってみないとわからないものなんじゃないかなとも思うんです。

そこに答えがなかなかなかみつからなかったり、愛の歌が限りなくあるように、愛の形や人生の形 がそれぞれ違うように…

相手の気持ちばかりを推し測って、自分の気持ちを世間という枠にはめてがんじがらめにするよりは、形がないからこそ 自由に 自由に思いのままに…とも思うんですが、そこにはいつもある種の命のルールを守ってこその自由かなぁとも思う自分もいたりして。

難しいですね~あせるあせる

でも愛しいとも思えます。
だから愛の歌が時代を超えて長く愛されてきたりするのかなぁなんて思いました。

これから私はどうしていきたいをたずねられて、ちょっと考えてみました。

やっぱりはっきり答えは出ませんが、いろんな人生のお話を聞かせていただいて最適と思われる道を一緒に探していきましょうとしかお答えができないなぁと思いました。

もうこれは占い師としての適性とかではなく、人としての個性だし、わたしのスピなんだろうなぁと思いました。

山らしくいつまでも土臭い というか 自然というか…。

自分を率直に認めると、時代が求める スタイリッシュな所が何一つ見当たらなくて んーと思うんですが 仕方ないですよね。

結局、私自身の方向性について悩んでいたんだということを内観するブログが書きたかったということですかね?
まだ悩んでいたんですよね。

抜けたといったくせに、しつこいやつ(笑)
すいやせん(笑)

アジカンの新世紀を聴きながら 書いた日記でした。

アジカン、かなり深いぞ♪