どこまでも歩きたいと思う。

ただひたすらに。

 

 

街を歩くとき、イヤホンをせずにはいられない。

なんて退屈なんだろう、大勢の他人とすれ違い、またはその波に沿って歩くというのは。

意識して前へ進まないと、行き先さえ見失いそうになるのは俺だけじゃないだろう。

 

いつだったか、もう疎遠になってしまった知人の男性がこう言った。

『街中にいると、たまに全ての音が聞こえなくなる感覚を覚える。……まるで、自分だけが取り残されているような。自分以外の景色が全部、残像のように見えるんだ』

音が聞こえなくなる?

自分だけが取り残されたような、全ての景色が残像のように見える感覚?

知ったこっちゃない、心底頭がおかしいと思った。

 

というのも、俺もいつもそう思っていたからだ。

多分、無意識のうちに、街のどこを歩いても、人の波に出会う度に自分という個人を必死に保とうとしていたから。

彼のように、わざわざ噛み砕いて言葉にする必要なんてなかった。

だって弱い人間みたいじゃねえか、俺は絶対に認めたくない。

認めたくはないけれど……。

 

 

彼は度々おかしな発言をした。

 

付き合った年上の彼女と泣く泣く別れたこと。

霊感が強いこと。

父や弟の話。

高校時代はベースをやっていて、女によくモテたこと。

かと思いきや、中学の話。

暗い過去。

昔は太っていて、周りとろくに会話もせず、陰キャだったこと。

今は太りたくない一心で、拒食症になってしまったこと。

よく見る夢。

天井の壁が粉々に砕けて落ちてくるので、叫びながら目を覚ますこと。

テレビを点けっぱなしにして寝ないと、このような悪夢を見る。

……。

 

なんだ、俺もよく覚えているじゃないか。

真夜中の公園の芝で、寝転がりながら一つまた一つと聞いた話を。

確かに、あいつは頭がおかしかった。

自慢話も多かったが、弱い人間だということも教えてくれた。

俺は結局、何も言えなかった。

いや、何かは言ったが、自分について詳しいことは何も教えてやれなかった。

彼は自分のことを話してくれていたのに。

俺はとっくに、彼との距離を疎遠にさせてしまっていたのだ。

最初から。……

 

 

自分のことは語れない。

正直に話していても、どこかで間違っているような、嘘をついているような、自分で自分のいうことが信じられないんだ。

彼のことは嫌いじゃなかった。

街の人々にだって敵意はない、他意もない。

ただ、俺がずっと不安だったから。

ずっと、びくびくしているから。

自分のことが一番に恐ろしいから、振り切るように断ち切るようにただ黙々と歩き続けることが、俺は好きなんだよ。

 

 

ごめん、自分の身の上話は極力避けたい……どうしても。

今、こんなに深く反省していても。

彼のような友人になり得なかった人たちについて、悪いことをしたなと、思えるようになっていても。

ただ、書くことはできる。

手紙という形であれば、もしかしたら。

……でも、こういうのは言葉にしないと、意味がないんじゃないか?

俺の声で、掠れていても、絞り出すようにしてでも、直接伝えなければ、しかし、一体誰に?

 

友に?

母に?

父と祖父に?

最愛の兄弟に?

意気地なしの俺に?

意気揚々とした俺に?

自分に。

 

 

森の匂いがする。

誰もいない沼地を歩いている。

細々とした蓮の上は、静かに湿って雫を垂れているだろう。

やっと独りになれた。

隙だらけの林の奥で、影が動いている。

ここでは好きなアーティストのプレイリストも恋しくない。

景色も香りも色彩も、刻々とシャッフルされている。

 

 

どこまでも歩けるような気がしていたい。

ただひたすらに。

謝りたい人たちの顔を思い浮かべながら、遠ざかって行く。

 

延々と、かげろうになるまで。