泉の辺でリデンの重臣達、そして給仕係としてパリも加わり、宴は和やかに進んでいた。

 夜も更け、満月が天頂に差しかかる頃・・ダシュンやパリと共にすっかり寛いでいたコウだったが、次第に落ち着きのない様子に変わっていた。何やら泉の水面が気になる様子で、それでいて直視することを避けている。

 

「・・おい、大丈夫か」

「う、うん・・」

「酔ったのか?」

「い、いや、つ、月が・・」

「月・・?」

 そう言うと、ダシュンはコウの視線の先に目をやった。泉に頭上の月がクッキリと映っている。

 

 その時だ、コウがフラフラ・・と、まるで何かに呼ばれているかのように立ち上がると・・泉に近寄って行く・・。それから泉の辺に跪いて水面を覗き込むと、暫くして、突然何かに両腕でも捕まれたような様子を見せた。

 必死にその見えない手を振り解こうとしているようで、そのうち本当に何かに身体を水の中に引きずり込まれようとしている。

「ど、どうした・・コウ・・」

 

 ダシュンが立ち上がった。離れた席で重鎮達と談笑していたカンも、思わず視線を向けた。パリも心配そうに見ている。

「待て・・」

 コウのところに行こうとした若者二人を、情報部の長であるザイルが止めた。

 一同、唖然とする中、リデンは落ち着いてジッとコウの様子を見つめていたからだ。

 

 コウは、尚も必死に抵抗している。が、うなり声を上げ、何かを口走り、まるで・・絞められた首から、その掌を必死に振り解こうとしているかのような凄まじい形相を見せ始めると・・さすがにザイルも心配になったのか、制するのをやめた。

 だが直ぐにコウの許に行こうとした二人は突然、固まり、それ以上は動けない。

 

 見えない何かと必死に戦っていたコウは突然、前のめりになって泉の水の中に上半身ごと倒れ込んだ。丸い鏡のような月を映していた静かな水面が、飛沫を上げて大きく揺れ、近くの篝火が煙をたなびかせて消えた。

 

「コウ!!」

 

 皆、一斉に立ち上がり、突然、身体が自由になったダシュンとパリは直ぐに駆け寄って助け起こした。

「コウ・・」

 目を閉じてグッタリしていたコウは、呼びかけに静かに目を開けると・・呪文のような言葉を呟き始めた・・。

・・つきのおうきゅうのつきのかがみ・・つきのきゅうでんはつきのとう・・つきのしんでんにはつきのいずみ・・

「え、何だって・・!」

「・・『月の王宮』の月の鏡・・『月の宮殿』は月の塔。『月の神殿』には月の泉・・」

 リデンが言った。

 

「え、何でございますか・・」

 皆、驚いて一斉に聞いた。

「・・つきのおうきゅうとつきのきゅうでんに・・つきのしんでんがむすばれ・・ま・・まげ・・」

 コウは何かを絞り出そうとするように呟いていたが、突然その身体がガクッとして力を失い、その場に昏倒した。

 

「『月の王宮』と『月の宮殿』、そして『月の神殿』が結ばれ・・扉が開かれ・・何かが、起ろうとしています・・」

 

 

 コウはその後、まるで頭の中に封印されていた記憶を一つずつ解くように・・目覚めては、何かを呟き、また昏睡状態に陥りという状態を続けた後、二日間ぐっすりと眠り、七日目には何事もなかったかのように元気に起き上がった。

 

 その間、カンは館の図書室に籠り、今後の計画について改めて考えていた。そこには今まで見ることが出来なかった貴重な書物や、それこそ『リデンの森』にしかないであろう特殊な事柄に関する興味深い蔵書が沢山あった。

 

 その日、シュメリア、ミタン周辺の広域地図を広げてザイルと協議しているところへ、侍従長のハマが一人の人物を連れて来た。

「・・ハルか!まさかお前と、ここで会おうとは・・!」

「・・閣下。ご無事で何よりです。奥様からのお伝言もお預かりして参りました・・」

 書房の外には眼下に美しい渓谷を臨む広いテラスが張り出し、明るい日差しと心地よい風が入っていた。

 

「では、コウは・・叔父のジュメ大使が『月の鏡』を通して伝えたことの幾つかを思い出したというわけですね・・」

「まず第一に、『月の王宮』とは文字通り王宮、すなわち月の神の覚えめでたきシュメリアの王宮だろうな・・。第二に、『月の宮殿』はそのまま・・我々が滞在した例の噂の男、シャラの屋敷。そして『月の神殿』・・・」

「では、今回の件には『月の王宮』、すなわちシュメリアの王宮もやはり何か関わりがあるということでしょうか・・」

 ハルはシュメリア王宮での、シュラ王との謁見の様子を語った。

「・・全ては王位簒奪を狙った、シャラの陰謀と云うことですかな」

 ザイルが言った。

「そのようです。それで、三つ目の『月の神殿』というのが・・」

「それなんだ・・」

 と言って、カンが地図を指差した。

 

「ここがシュメリアの王都メリス。『月の王宮』の所在地・・で、ここが御大シャラの御屋敷。麗しき宮殿の跡!・・そしてハル、この辺りだろ、何やら神殿がありそうなところって言うのは・・この三か所を線で結ぶと・・ほら、見事な三角形の、リデン様おっしゃるところの、〝扉が開かれる〟ので・・ございまァす・・」

 ハルはカンの妙なテンションの高さに、微かに微笑んだ。

「で、カン殿が向かわれるのは、その最後の一角というわけですな」

 

 カンはシャラを取り逃がし、ぺルを助けることが出来なかったのは、自らの不覚ゆえだと感じていた。どうあってもシャラの居場所を突き止めるつもりだった。が、そこに侵入する手立ては・・。

「そのことで、カン様・・今回こちらに参りました・・」

 

 その辺りを探っていたハルの部隊は、そこに独自の神官養成機関があることを突き止めた。何らかの理由で総本山である都の主神殿の影響を阻止するためらしく、主に地方から人を募っている。

 採用された者は神官の推薦状を持って、決められた日時に決められた場所に集合するのだという。

 

「そうすると、後は何とか、その推薦状を手に入れられれば・・」

「はい。こちらに・・」

 そう言ってハルは、大神官バシュアの印章の押された三通の推薦状を差し出した。

 カンの顔に愉快そうな表情が表われた。

「・・偽造したのか」

「いえ、そんな危ないマネは致しません。本物でございます。もっとも、その大神官の印章自体はニセモノのようではございますが・・」

「でかした」

 

 三人の応募者を買収して推薦状を手に入れたハルは、その土産を手に『リデンの森』の伝令と『タンデの河』近くで落ち合った。

 

「それであの濃い霧の中を無事、通って来れたわけか・・」

「ハル殿。うちに来んか・・」

 ザイルが口を挟んだ。

「いずれ、機会がございましたら」

「おいおい・・」

 

 そんなカンの反応にも関わらず、ハルはその誘いもちょっと悪くないと思った。まだやって来たばかりだというのに、この森の空気がすっかり気に入っていた。久しぶりに会ったカンも、以前にも増して溌剌としている。

 

「で、何か他に、その神殿の周辺のことについて分かったか」

「月の云々・・で思い出しましたが、その辺りも『月の宮殿』同様、異様なまでに月の輝きが強いところです」

「輝きが・・強い・・」

 

 

 数日後、カン達三人は舟でウルドを目指して出発した。途中まではミタンへの帰路が同じハルも同乗した。

 ハルと別れる時、カンはレ二の特別な手法で彫った銀細工の〝護符〟をその手に託した。

「これを妻に・・くれぐれも身体に気をつけるよう。無事な出産を祈ると・・」

 

 

 ミタンに戻ったハルは、『リデンの館』での協議の内容を報告した。

 そして『月の宮殿』の事件に対する何らかの関わりを完全には払拭出来ないとして、シュメリア王室への警戒を怠らないよう訴えた。

 

 しかし、バティ殿下を初め『婚礼の儀』の随行員達全員が、シュメリア王宮の関与を疑問視して危機感に乏しかった。

 ハルは宮殿の火事を思い出すよう訴えたが、まるで皆、既にあの恐ろしかった出来事を忘れてしまったかのように、只、そこでの夢のような滞在の日々を語るばかりだった。

 おまけに一番肝心なぺルのことは、シュラ王の言葉を真に受けてか・・その無事を確信しているようだった。

 

「あの子は大丈夫よ」

「ぺルさまのことです。ご無事でごさいますよ」

 

 皆、心配で気も狂わんばかりになっているよりは良いのかも知れないが・・事件直後の疑心暗鬼の様子とは随分違うことに、やや困惑した。

 

 

 それでハルは、国王クルに直訴した。シュメリア王府からの親書にも重ねて綴られた、〝ペル姫に危害が及ぶことは決してございません・・〟と云う言葉の危うさに、ハルが一生懸命、自ら集めた情報も交えて口説くと、王自身も事の重大さを覚えたようだ。

「では、兵の増員を許可して下さいますね。シャラの一党が近々、『月の神殿』で何かを始めようとしているのは確実です。そのため秘密裏に軍を集結させておきたいのです」

 

 

 王の許可を得たハルが、軍部に急ぐため王宮の裏門に廻った時だった。

「おっと、すいませんです。軍人さん」

 入って来る荷馬車とかち合い、御者が道を譲ったハルにそう言った。

 

「あれは・・」

「シュメリアからです。王宮からだそうで」

 門番が言った。

「王宮から・・?何を積んでる」

「酒樽だそうで・・」

「酒樽・・?」

「婚礼時の不祥事に対する詫びのためだとか・・。でも、随分美味い酒らしいですよ。何しろこれでもう三度目ですからね、荷馬車一杯に積んだのが。あの御者ともすっかり顔馴染みですよ・・」

 

「三度目・・!?」