即位したシュラは、先王の重鎮達を後見として執政を担った。しかしまだ若い王の準備は十分とは言えず、最初の一年余りは、好きな武術の稽古も脇に置いて執務に専念した。が、その一番の相談相手は后のマイヤだった。

 

 マイヤには不思議な直観、霊感というようなものがあり、それがよく当たった。初めは若い妃が政に口を挟むことなど歓迎していなかった重鎮達も、妃の読みが鋭いことから一目を置くようになった。

 しかし公私共にマイヤに主導権を握られ、本来のシュラの利発さの方は些か影を潜めていた。

 

 

 そして半年ほど前からやっと剣の稽古を再開すると、長い間その腕を振えなかった思いが爆発したように、以後、急激にその腕が上がり、今では師範をも脅かす勢いだった。

 そんなふうに毎日熱心に武道に取り組み鍛錬しているせいか、最近では時折、夜ごとの杯を重ねる間もなく眠気を覚えて、グッスリと寝入ってしまうことがある。

 しかし早々に寝てしまうせいか、たいてい夜中に目を覚ます。が、その傍らにマイヤの姿はない。しかしまた直ぐに眠気が襲い、目覚めた翌朝には、ちゃんとその姿はある。

 そんなふうにやたらと眠くなるのは決まって満月と新月の頃だと気づいた。しかしマイヤを娶って以来、余りものを考えなくなっていたシュラは、それ以上追及することもなかった。

 

 

 そんなある日のこと、中庭の木陰に寝そべり涼を取るシュラに気づかず、廻廊を行く王妃の姿に目を止めた廷臣達の話し声が聞こえた。

 

「・・陛下は相変わらず、御妃にぞっこんのようですな・・」

「ま、あの御方様なら当然かと・・」

 

 王妃マイヤの色香が更に増した事は宮廷人達の格好の話題だった。元より美しいが、ここ最近のドキッとするような様には皆、落ち着きを失いそうだった。

 

「・・しかし、もう既に四年近くにお成りでございますが、未だ御世継ぎ御懐妊の噂さえ聞こえませぬとは・・」

「いや、まだお若いとは申せ・・」

「・・皮肉なものだな。丈夫で秀でた御世継ぎを生んで頂くために、わざわざ遠い田舎からお迎えしたはずが・・」

「なら・・どなたか、第二の方様でも・・」

「側室さえ、まともに侍らせようとなさらぬのにか・・」

「いや、いや、すべてはあの御方様の方がお放しにならんからでは・・」

 

 その言葉に皆、どっと笑い声を上げた。そんな家臣達の軽口には慣れっこのシュラは、普段ならさほど気に留めなかったが、その時は何かが心にかかった・・。

 

 

 その夜、シュラは暫く前から手懐けていた一人の女官ノマに密かに命じて、いつもの酒瓶の酒を水で薄めさせていた。その杯を重ねて飲むうち眠そうにあくびをし始めた。

 

「あら・・今夜はもう酔いが回ったのかしら・・」

 そう言うマイヤの顔が妙に熱っぽい眼差しを帯びている。

「では、今宵はこれでおしまいね・・」

 そう言って何時ものように女官達に代わり、マイヤが自ら杯に満たした酒を勧めた。

 

 それは遥々その一族の地から送られて来た蕩けるような美酒で、ちょっと口をつけたシュラはその中に何かの苦みを感じた。

 何杯も酒を重ねた後だと気づかないが、殆ど水ばかり飲んだ後ならその違いがわかる。

 

「あっ・・!」

 ノマが酒瓶の一つを無様に取り落とした。王妃と侍る者達の視線が皆、その若い女官に向いた。

 その間にサッと残りの酒を床に溢したシュラは、それからグッと飲み干す振りをした。

「まあ・・」

 振り返ったマイヤは、粗忽な女官の失態にも気を留めず、一気に酒を飲み干す王者らしい振る舞いに、ちょっと年下の夫を見直した。

 それからシュラは直ぐに閨に下がった。

 

 暫くして、マイヤが目を閉じて臥す自分のようすをソッと窺うのを感じた。眠った振りをしている夫に欺かれたマイヤは足音を忍ばすようにして出て行った。

 直ぐに起き上がったシュラは、その後を付けて部屋を出た。

 

 

 シュメリアの主神、『月の神』が北方の地に出かけ、その姿を隠した夜。

 満天の星空の下、その陰に紛れるように頭からスッポリと夜の衣を纏ったシュメリアの王妃は、なんと宮殿ばかりか、その中庭から万一の場合の脱出口である秘密の通路を通って、都を取り囲む外壁の外に出た。

 まさかこんな夜中に都の外に出ようとは思っていなかったシュラは驚いた。

 

(一体、どこへ・・)

 疑惑が膨らむ。

 

 しかしそこで王妃は松明を消した。星明りでは姿の判別もままならない。

 その時、その先の御用地の森の方角に微かな光が灯った。松明の灯りらしい。その光に向かってマイヤが歩き出した。シュラも距離を置いて後をつけた。

 城壁の側門の篝火が次第に遠ざかる。

 

 森に近づくと、頭からスッポリと衣を纏った姿があった。その背丈から男らしい。

 

(こんなところで逢引か・・?)

 

 二人はそのまま森に入り、さらに奥へと向かっていく。

 夜の森は昼間とは全く違う。そんな暗闇の世界へ、自分の妻が見知らぬ男と共に入って行く。湧き上がる疑惑を胸に、二人が枝や葉に触れて歩く音に合わせて密かにつける。やがて微かな水音が聞こえてきた。

 

(もしかして・・ここは・・)

 シュラは二年近く前の出来事を思い出した。あれ以来、この森の奥には足を踏み入れることはなかった。

 

 

 あの時、二人を捜す近習達の呼び声が聞こえた。しかし、マイヤは放さなかった。しかし、マイヤは・・放さなかった・・。

 その後一体、何があったのか覚えていない。マイヤも覚えていないと言う。ただ近習達の声が近づき・・突然、悲鳴に変わった・・いや、いや、何があったのか覚えていない。

 喉元を獣の牙のようなもので掻き切られた近習達の無残な遺体が見つかったのは、そこからかなり離れた場所だった・・。

 

 

 その時シュラの目の先に突然、幾つもの篝火で昼間のように明るい光景が広がった。大きな砂岩に囲まれた祠のある場所・・。

 

 燃える炎で辺りの様子が浮かび上がっている。そこには体中に赤い泥を塗り、腰布を身に着けているだけの男達の姿があった。その裸身が篝火に照り映え、辺りの色合いと同化している。

 マイヤと連れの男は共に祠の陰に消えたが、暫くして再び現れた妻の姿にシュラは思わず息を呑んだ。美しい胸を露わにして腰の辺りに捲いた薄物からは、その下の肌が透けている。

 そのまま円座を組んで座る男達の中央に進むと、その唱和の声に合わせてゆっくりと腰をくねらせて踊り始めた。篝火に照らされたその姿は異様に妖しく、見慣れたはずの妻の身体がドキドキするほど艶めかしい・・。

 

 

 翌朝、目覚めたシュラはいつものように自室で寝ている事に驚いた。隣を見ると安らかな寝息を立てて眠る妻の姿があった。

(・・夢をみていたのか・・?・・いや、確かに・・でも、どうやって戻って来たんだ・・)

 

 

「陛下・・陛下、今の報告をお聞きで・・」

「え・・ああ、すまん・・。少し休む、邪魔しないでくれ・・」

 その日、一日中ボンヤリとしていたシュラは、そう言うと執務室の奥の部屋に下がった。

 

「お呼びで・・」

 部屋の隅の陰が次第に濃くなり、男の姿に変わった。

「森の様子を・・見て来てくれ・・」

 陰が次第にに消え、男の姿も消えた。

 

 

「今宵もまた、早々に酩酊気味のごようす・・」

 満月が巡ったその夜、あくびを始めたシュラに、マイヤがそう言いながら杯に満たしたいつもの酒を勧めた。

「あっ・・!」

「ま、また、おまえなの・・」

 酒瓶を取り落とした粗忽な女官に、皆、呆れて言った。

 

「も、申しわけございません、陛下。もうこの者を侍らすのはお止めになられましょうか・・」

 女官長が恐縮して言った。

「かまわぬ・・面白い座興だ」

 吹き出したいのを堪えてシュラが言った。

 

 

 その夜半近く、シュラは再びマイヤを追って森へと踏み込んだ。時折、月に吠える獣の遠吠えが聞こえる。

 陰の男の報告では、日中、森には人影もなく、儀式の痕跡も残されてはいなかったという。

 しかし燃える篝火に映し出された砂岩の岩場では、頭上からの月光を浴びて、その夜も薄物を腰に巻いただけの妃が半裸の男達に囲まれて舞っていた。

 中央には水を張った大きな平壺が置かれ、マイヤは踊りながら艶めかしい所作でその平壺の上を何度も跨いでいる。

 

 その様子を気づかれぬように近くの岩場の上から眺めていたシュラは・・ふと怪訝に思い、平壺の水を注視した。その水面に頭上の月、シュメリアの主神がその姿を映している・・。

 突然、儀式の意味が明らかになった・・!

 

 我らが守護なる神の姿を、誰あろうシュメリアの国妃である我が妻が、冒涜しているのだ!

 衝撃で震えさえ覚えたシュラが思わず飛び出そうとしたその時、首の辺りに何かを感じたかと思うと、気を失っていた・・。