一番最初の身近な死は、17才の愛猫だった。
好きだった相手の死は、たとえ動物でもポッカリ心に穴があくものだ。
そのとき、遅ればせながらわかったことは、それまでの『何もなかった』生活を一変させると言うことだ。
たとえ他にどんな悩みを抱えていようと、それまで丸くキズもなかったココロが、人によっては砕け散り、その破片を拾い集め、どんなにていねいに修復しようとも、二度と元の形には戻らないことを知る。
外からは見えなくても、その人たちのココロの形はいびつだったり、まだひび割れたままだったりするのだ。
こうしたことは、宗教的、心理学的に学んで想像力を豊かにしても、やはり経験したことのない人にはわからないこともあると思う。
『赤毛のアン』の物語の中で、主人公アンがマシュウおじさんと死別するエピソードがある。
人生に死というものがふれたとき、もう二度と元の何もなかった人生には戻らない。
絶望のみが残るというのではない。
ただ、元には戻らないのだ。
欠けたり砕けたりしたココロを、それぞれ、どうにかこうにかして『修理』をして生きているのだ。
私は感謝知らずでもかまわない。
ダメなものはダメ。
良くないものは良くない。
看護師さんなのに、なぜ素手で軟膏を塗布するのか?
前回も綿棒を使うようにお願いしたはず。
家族がいくら衛生管理に気を配っても、これでは…
なぜ滅菌グローブが出来たか。
いくら手を洗っても菌が落ちないことがわかったからだ。
昨年の夏、母の在宅の準備をしていたとき、住宅改修もしようと思っていた。
うちは玄関も廊下も狭いので、リクライニング車椅子が入らない、曲がれないのだ。
春に母が外出したときは、民間救急車の救命士二人がかりで特殊な担架を使っての移動だった。
つまり、災害があっても、車椅子では避難できないのだ。
兄と父親は住宅改修に頭から反対だった。
災害時のことは頭になかったのだろうか?
それとも、自分だけ逃げるつもり!?
スタッフさんの一人が言っていた。
『お父さん、頼りにならなさそうだから…ムスメちゃん、心中するつもり!?』
当たり…
いやいや、
次の担当者会議でケアプランの大幅変更があるので、そのときいろいろやる予定。
他人にまで『頼りない』と言われる父親…