鉄筋コンクリートの大きな書店横のカフェで、僕は溶けて行くマンゴーフラペチーノを気にかけながら、窓の外に残された夏を見ている。
18時からのカウンセリングを待っているのだ。
人は知りたがる。そのくせ、知った後のことを用意していない。
本来計るべきでないものまで計り始めて、人は、何かに近付けたのだろうか。
知ることは罪悪ではない。知ったと思い違うことが罪悪なのだ。
僕は書店とカフェの間の小道を見下ろす。
この道は若い頃からの気に入りだった。無論、僕の若い頃にはこのカフェも隣の書店ビルもまだなかったのだが、この小道は存在していた。僕はこの道の先にある裏池袋の閑静な町並みが好きで、休日ともなればよく独りで散歩したものだった。
だから当然池袋は嫌いな町じゃない。人生の半分はここいらで過ごしたから。しかし今日、この街は今までとは確実に違った見え方をしている。それは街が近代化のあおりを受けて常に変わり続けているからではなく、僕の中身の話によるところが大きい。今度ばかりは僕は全てを終わらせなければならない、そう考えていたのだ。
この歳まで生きてきて、決してまじめとは言い難いが毎日ちゃんと働いて、なのに今夜眠る場所さえ決まっていない。いや、考えてみればずっと僕には帰る場所などなかった気がする。いつも借り物の部屋で借り物のベッドに眠る。人様の家の人様のベッドで眠る。
いつからだろう。こんな人生になったのは。いつからだろう。借り物の人生になったのは。
考えれば考えるほどに、僕にはそれが生まれて間もない頃からだったように思えてならない。
僕のいちばん幼い写真。あの今は亡き父の腕に抱かれ、中野の安アパートの前の駐車場で撮られた一枚の写真の頃から。
生きていても良いのだろうかと、度々人より聞く言葉だが、他人に迷惑がかからないのならば、生きていても良かろうと僕はそのつどこたえる。しかし、生きていて意味があるのだろうかと聞かれたら、果たして意味があるとは言い切れないところがある。
ただ単純に家族を食わせるためだけならば、金があれば良いというわけで、僕でなければならないというわけではない。
僕でなければならない理由。
もしかしたらそれが、あの写真の頃にすでに僕が失ってしまったものなのかもしれない。
誰かが言わなかったとなぜ言えるだろうか。もっと健康な子供だったら良かったのにと。
翌日は今年初めての冷たい秋雨が雷鳴とともに、朝から池袋の街を濡らしていた。
僕はいつものとおり10時には素泊まりの宿を追い出され、スーツケースを転がしながら近くのカフェまで移動した。
濡れてしまった服をうっとおしく思いながら、ブレンドを注文し、鞄の中の小説を読み終えてしまったことを思い出し、昨日のうちに書店に寄れなかったことを少し悔しく思った。
仕方がないので僕は記憶の中を整理しはじめる。この作業は通常、僕が最も避ける作業なのだが、その日は他にすることもなし、外は豪雨という運びで自分でも意外なほど素直にそれをはじめることができたのだ。
下手をすれば底なしの谷に堕ちて、上がってこれなくなるような、そんな危険な作業を。
僕は慎重に、選んで楽しいことを思い浮かべる。
初めて会った日のこと。
手をつないで歩いたこと。
笑っている。
ふざけている。
平和。
例えばこんな冷たい雨のふりしきる日に、慣れ親しんだ室の中で眠れるというようなことを、平和と呼んでも良いのではないか。ただそのような平和ですら、今の僕からは遠い。
いけない。
楽しいこと。
うれしいこと。
くちづけ。
ただそれだけで僕は幸せになれる。にもかかわらず僕の方は結局何もしてあげられない。
しかし限界があるのならば、そこまでだって良いのではないか。その限界まででいい。続かないことだっていい。
幸せを。
結局その日は夜までカフェに居たことになる。
雨上がりの街の空は未だ霧が降りているのか、月が出ているのにぼんやりと明るい。
綺麗な夜景。こんなにも街には灯りがともっているのに。どうして僕の帰る場所はないのだろう。
人は喋りたがる。伝えたがる。しかし本当に困りだすと近寄らない。言葉だけを置いて帰ってゆく。かなしそうな眉をしても、足取りも早く立ち去ってゆく。
たった一対の螺旋によって、位置付けられた僕の後生を、誰が当たり前と呼べるのだろうか。新しい劇を始めたいのならば、一度幕をひくしかないのだろう。ただその幕さえも、今の僕には重いのだ。
閉店の曲に追われるように飛び出した街には秋の風が吹いていた。僕はせめて上着を持ってあの家を出るのだったと思うのと同時に、こんな日々の中で季節を越えてしまったことに気づいていたたまれなくなった。
そしてその後襲ってきた頭痛に、鞄の中に手をつっこんでロキソニンを探した。
翌日の昼、僕はなじみのあるベッドで目が覚めた。真っ白な出窓についたレースのカーテン越しに柔らかな陽が射していた。
いつのまにか、来てしまったのだろうか。
あたりを見回したが部屋の主は留守のようだ。
きっと眠っている僕を置いて買い物にでも出たのだろうと思い、そうしたらなんだかすごく安心してしまって、またうたた寝をはじめる。
どこかの家からカレーを作る匂いがしている。まどろみの中に懐かしい香り。午後の陽にゆれる洗濯物。つかの間の平和。こんな幸せですら、きっと夜までには消えてしまうのだ。
哀しみはあるだろう。今も。振り向かずとも。
悔しさもあるだろう。この身体の中に。
しかしそれを感じるのは、今日ではない。
噛み締めるのは、今日ではないのだ。
今日はただ希望だけを想おう。
明日の先に眠る、未だ見たことのない希望だけを。
だんだんと堕ちてゆく眠りの中に、僕はひとつの景色を見る。
透き通った空に雲雀が舞っている。丘の上の家には少年が暮らしている。
僕は言う。良い夢だね。
争いという言葉すらない景色。川の畔で皆が昼寝をしている。
犬が吠えることもなくて、ただ雲だけが流れて。
僕は言う。良い夢だねと。
君は笑う。微かに。
良い夢だね。