ばーばの死因は老衰です。本当は誤嚥性肺炎になるのかもしれませんが。ぶぶの勤める施設(介護老人保健施設)で亡くなりました。
ばーばの部屋には少しでも安らげるようにとアロマオイルを置いていました。
亡くなる三日前、金曜日の朝、部屋を訪ねると若干息がいつもより荒い気がしました。午後、バイタルを測ると酸素飽和度が80%台に低下していました。施設医からも肺炎の疑いがあると告げられましたが、ぶぶは検査や治療をしない選択をしました。もちろん、ねぇねにも電話で説明し了解をもらいました。
7月4日に転倒して以来、ばーばは食欲を無くしていました。肺炎を治療するとなれば抗生剤の点滴治療です。今のぶぶのように点滴と栄養剤を絶え間なく繰り返す1週間を送ります。
1週間後には、ばーばは体を起こすこともできなくなっていることでしょう。食事も水分もとれていない状態では、点滴もあちこちの血管で点滴漏れを起こし、毎日刺し直しを繰り返すことは目に見えています。そのうち刺す場所がなくなり途中で点滴治療も断念せざるを得ないでしょう。
結果、起き上がることもできない、いわゆる作られた寝たきり老人となって認知機能も低下し、おむつ交換だけをされる日々となることが目に見えていました。
それは、ばーばの望む最期ではありません。
その後、看護師の強い勧めもあり補水のための点滴を一度だけしました。が、体を動かしにくい状況と何度もの差し直しに、ばーばは「もうやりたくない」と言っていました。
施設の看護師達にもぶぶにあったらお告げのことも伝え、だからこそ逝くべき時に逝かせたい。気持ちはありがたいけれど。と伝え、やっと治療行為をせず見送ることを承知してもらいました。
その日の夜には酸素飽和度が60%台となり、ぶぶは、いつまで持つかもわからないからと言ってねぇねを呼びました。夜行バスで深夜2時に着いたねぇね。
土曜の朝、施設を訪ねると意識もあり話もできました。夜には介護士と看護師2人の手を借りてトイレに行ったそうです。
オムツをしてるからと説明してもトイレに行きたいと聞かなかったそうです。
呼吸状態は悪化していたので酸素マスクをつけていました。本人に尋ねるとつけていると楽とのことでした。
近しい人を呼び、ぶぶ、ねぇね、とーちゃんと、ばーばの枕元で近況を報告しあったりしました。
看護師の友人も来てくれたので「どうして看護師は医療行為を何かしたがるんだろう?」と聞くと友人はしばらく考えてから「私も自分の親だったら何もしないんだと思う。ただ仕事となるとできることがあるならしないと。と思ってしまうんだと思う。」と返事がありました。
この日、初めてばーばが「もう家に帰りたい」と言いました。転んでから、1人は嫌だと、自ら施設利用を希望してきたばーば。
「帰りたい。」
その言葉にドキリとしました。
帰すことも考えましたが、家では酸素ができない。亡くなっても医師に来てもらうことができず検死になってしまう。そして、酸素がなければ苦しく、帰る途中で死んでしまうこともありうる。そんな状況です。
「酸素ないと苦しいでしょ?家ではできないよ。酸素終わったら、うちに帰ろう。」と伝えるとばーばは「うん」とうなづきました。
内心、酸素が終わる時って死ぬ時だよな。と寂しく思っていました。ばーばは気づいたでしょうか?
その日は18時過ぎに施設を後にしました。
翌日曜日の早朝、3時50分。施設の看護師から無呼吸時間が長くなっていると電話があり、ねえねととーちゃん、ばーばの妹と駆けつけました。
看護師が痰吸引をしており「痰も引けないです。」と。痰がらみもないのに、なんでわざわざ苦しいことをとぶぶもねぇねもいらっ💢としましたが、看護師もぶぶ達が来るまで何とかと考えての思いやりだったのだろうと考えることにしました。
もう話をすることはできず、たまに大きな呼吸をするくらいでした。
ねぇねが、「お母さん、この曲好きだったね」とYouTubeで音楽を流してくれました。
すると、まるで歌うかのように呼吸数が増え、喉が上下しました。
それからは、あの曲、この曲、流します。ばーばは好きだった曲には本当によく反応するのに、あまり馴染みがない曲になると、まるで「そんなの知らない」とでも言うように呼吸器数が落ちます。
あまりの露骨さに皆んなで笑ってしまうほどでした。
そして、8時過ぎ、大好きな越路吹雪さんの歌を聴きながら本当に眠るように呼吸が止まりばーばは逝きました。
穏やかな最後だったと思います。
同居していながら、老いていくばーばに優しくできなかったし、邪険にしたし、後悔することもたくさんあります。
でも、ねぇねが、音楽に気づいてくれたことで、皆んなが心安らかに、明るい気持ちをもって見送ってあげることができました。
心配性で怖がりなばーば。死ぬことも怖がっていました。皆んなが明るく囲んでいたことは、ばーばにとっても安心な時間だったと思います。
ばーばのお通夜の喪主挨拶で、ばーばの夢は学校の先生になることだった。夢は叶わなかったけれど、ねぇねとぶぶにとっては良き教育者だったと話させてもらいました。ばーばは最期までばーばらしく過ごし、子供達に人を看取ることの大切さを教えてくれた。介護を仕事とするぶぶには介護の力を。音楽を仕事とするねぇねには音楽の力を。身をもって教えてくれました。
最期の最高のプレゼントでした。
ばーば、ありがとう。