《魂の科学》              image


(はしがき)
人間の善悪の行為はその人間の意思に依るものではなく全て神様が作られたシナリオ通りに考え、また行動させられている、
私が思う魂(霊)の真理は私のオリジナルであり一番述べたいもので、内容の真理は合理性があり、その意味が解って頂けば、もう病気も貧乏も死も怖くなく安穏として人生が送られます。

〔魂の科学1〕
私は魂は不滅で肉体は死んでも、すぐに何かの動物に生まれ変わる輪廻転生は肯定しますが悪因悪果、善因善果といって良い事をすれば良い結果になり悪いことをすれば悪い結果が起きるということには合点がいかない、例えば世の中には良い事をして悪い結果になったり、悪い事していても良い結果になった人達のことを見ると、これを前世の因果応報の説で片付ける事には私は納得できない。

この話しは今までの宗教の概念を遥か超越した考え方であります、まず始めに 「あなたは前世に良い行いをしたから今世は幸せで、あなたは前世に悪い行いをしたから今世は不幸せなのです」 というのが今の因果応報の宗教の基本です、

然し、これは幸せと不幸せの人間がなぜできるのか、の辻褄を合わせる為に考えられた事だと思うのです、

なぜかと云うと、この因果関係は魂が何千年も何万年も生き続けていますから、ずっと遡った太古の昔からこの因果関係はあったということです、そして現在、良い運命や悪い運命を持った人間が出来たということです、
然し、キリスト教では人間は昔、アダムとイブ、日本神話では、いざなぎ、いざなみのみことの男女二人からいきなり始まっている、(進化や退化の過去も無い)

それなら、この一組の男女は最初に産まれてきたので前世が無い、だから前世に良い事も悪い事もしていないのです、

それが何時から善行や悪行をする人間になったのか、

また人間の祖先は海に住んでいた生物とも云われています、その生物が良い心や悪い心を持っていたのでしょうか?現在の、海の魚の生態を見れば、弱肉強食の世界で相手を食わなければ生きられないのです、また食肉動物のライオンなどは弱い鹿やうさぎを殺して食べているのです、殺さないと生きられないのです、これによってライオンの後世に因果関係が産まれるとは思えない、人間も太古の昔は生きるため罪悪感なしに動物を殺して食べていました、これは神様から与えられた本能で罪悪感など、さらさら無い、

こんな時代から人間の悪行が現在の運命に波及するとは考えられない、ですから、太古の昔は、人間は良い事も悪い事もしていないのに、その後に悪い行いをしょうと考える脳細胞を持った人間が産まれて悪行を重ね、それが今生、悪い星の下に産まれて不幸になり段段と人間の運命に差が出てくるというのは、納得出来ない、

なぜ悪い事を考える脳細胞を持った人間が産まれてくるのか・・・人間は、なにも望んで、その様な人間に産まれたいとは思っていないのです、
人間が平等を求めても、神様のお考えなのでどうする事もできない不可抗力なのです、

また、海で溺れている人を助けようとして自分も溺れて死んでしまったという事もよくあることです、
この事を因果応報の見地から考えた時どう解釈できるのか・・・こともあろうに良い事をして被害に会うなんて、こんな間尺に合わないことはない、だから因果応報はないと思うのです、

そこで私は思うのです、なぜ神様は、このような人間社会を創られたのか、それは魂が真の自分であるからです、肉体はただの物体であり自分ではないのです、肉体は神様の道具であります、
私達は肉体と魂は合体していると思い込んでいるところに間違いがあるのです、
肉体と魂は本来別別のものです、肉体系と魂系に別れているのです、

魂は永遠の命でありますが、肉体は産まれて死ぬまでの命です、

魂は肉体に入って肉体の環境を味わう事にあるのです(魂は脳細胞が無いから、その肉体の脳細胞で感じるのです)
それでも魂が本当の自分なのです。

(永遠に死なない魂に記憶があれば何千年も前のことまで覚えていなければいけない、それは大変なことになるので魂には記憶できないようになっているのです、だから肉体の一生だけの記憶で肉体が死ぬことによって過去のことを引きずらないように、記憶がリセットされて、また無から新鮮なスタートが送られるのです、そのために魂には記憶ができないのです)

神様は千姿万態の境遇(幸せや不幸せ)の肉体を作っておられるのです、そして神様は、その様々な肉体に魂の入れ替えをしておられるのです、
神様は、その入れ替えに依り、魂の公平を保っておられるのです、
これは神様の生物に対する偉大な御思慮に依るものだと思います、ですから、因果応報に依って、幸、不幸が存在しているのではないのです、
(然し物理的な因果関係は別です例えば親が医者なら子も医者という場合は脳細胞が遺伝により引き継ぐから、また、なすびの種を植えたらなすびがなる、風が吹けば桶屋が儲かるという類)

魂が本当の自分ではありますが、魂は空気のようなもので脳細胞が無いので考える事も出来ないのです、また意識もないのです、
また脳細胞を持った肉体は考えたり行動するのですが魂が宿っていなければ脳細胞も動かないのです、ですから魂が脳細胞に宿っている時だけが人間も生きている実感を味わうのです(これは当たり前のことですが)
ですから魂は脳細胞がないので肉体の脳細胞の考えや行動に従わなければいけないのです、そしてその肉体が死ねば魂はまた次の肉体へ移るだけです このような訳ですから、人は不幸だからといって嘆くことはないのです、神様は人間(魂)の皆に、公平に幸せの肉体や不幸な肉体を味わうようにお考えなされているのです、


輪廻転生とは私なりに解くと命が生まれ変わるのではなく魂が色々な生物に次から次へと寄生して廻るものです、

ですから、短期には幸せになったり不幸になったりしますが何千年も何万年もを平均すると魂は皆、平等なのです、

もしも、現在、人は皆、平等だと、幸せを感じられないのです、
だから幸せも不幸があるから感じられるのです、不幸も幸せがあるから感じられるのです,
これが人間の楽しい生活かもしれません、この様に思うと人間は、もう、運が悪いと悩んだり嘆いたりすることは無用です、本当に平等です、だから死も、また怖くないのです、考えたら良くできたシステムです、神様に感謝します。

〔魂の科学 2〕
魂の世界には、人間の考える物理や道理では理解できない想像もつかない真理が秘められています、それは神の創作に依るものです。

まず、始めに、魂は不滅であります、その根拠は何か、といいますと、それは現在、自分が今、現実にこの場に生きているという事です,


挿絵1
 

人間が死ぬものであれば何千年もの過去の何処かに既に死んだ状態でいるか、又は何百年も何千年も先の未来のどこかに現在という日が来るまで待機している状態に置かれていてもよいのではないでしょうか、その確立も高いはずです、
ところが今、現在(人間の一生)という短い間の中に生きているのです
、考えれば不思議な事です,これは奇跡です、然し、これは不思議でも奇跡でもありません、これは、やはり、魂が不滅のものであって過去からずっと現在に至るまで色々な動物に寄生して生き続けて来ている、という証であります、

魂が永遠の命という証明は、過去と未来の長い期間に自分が生きている現在の期間は一瞬の間です、この一瞬の間に生きている確立は何万分の1か、何億分の1か解らない位い確立は低い、その低い確率の中にピッタリ生きているはずがないのに生きている、という事はやはり魂は不滅で過去も未来もずっと永遠に生き続けているからであります、
ここのところが一番解って貰いたいからです、時間は過去から未来まで無限です、人間が生きている時間は一瞬と言ってもよい、現在は21世紀、その21世紀になぜ私が生きているのか、これは奇跡です、

然し、奇跡ではありません、肉体はすぐ死んでしまうが魂はずっと昔から生きていて色々な生き物に移り変わって生きているので

移り変わった瞬間は死んで意識がないのでわからないが移り替わった直後から意識が蘇るので別の動物に移り変わった感じはないのです、
    
今、生きていると言う事はその前に死んでいたからです、死んでいたということは、その前は生きていたからです、生は死がなければ成り立たない、これは輪廻転生の根拠となるものです,
(ここで間違ってはいけない事は輪廻転生は先祖、親、子供、孫などの肉体の細胞の受け継ぎの事ではありません、魂の方が色々な肉体に転生して宿って行くことなのです)

人は魂の存在を無視しているが、盆になったら故人の魂が帰ってくるともいう潜在意識を持っている、これは肉体と魂は独立して存在しているという事です、

人は生きている肉体の一生の中で考えているから視野が狭いのです、魂の世界があることを信じられないのです、

〔魂の科学 3〕
魂は脳細胞ではありません、無色透明です、空気のようなものです、でも人間が死ねば直ぐに何かの動物の脳と融合して意識となり、また一生が始まります、魂とは、このような性質を持っているのです、

魂には、魂の母体というものがあります、魂の母体とは、この広い空間にあり、全人類、全生物(脳細胞を有するもの)の個々の魂は、その母体に繋がっていて一体となっているのです、

挿絵2

だから他人の魂も自分の魂もつながっているのです、だから魂はあちらやこちらの肉体に移動できるのです、但し魂は脳細胞でないので意識もないし記憶もできないのです、意識や記憶は肉体の脳細胞で感じるのです、

魂の母体は空気のようなもので、地球の端から端までつながっています、そして個々の魂は、あちらの肉体に宿ったり、こちらの肉体に宿ったりして入れ替わっています、それがたとえ何千里、何万里も離れていても母体を通って瞬時に入れ替わっています、魂が肉体の脳に滞在する期間は一ヶ月,或は一週間,一時間、一瞬の間と、様々であります、それも老若男女を問わず子供からお年よりへ、おじさんから少女へ、青年からおばさんへ、それは親子も兄弟も親戚も他人も関係なく入れ替わっています、
そうしながら永遠に生き続けるのであります、これを 「短期滞在魂入替論」 と称しています、
でも、肉体(脳細胞を含む)だけは一生限りです、本当の自分は魂なのです、魂が主なのです、親子、兄弟、姉妹、等は肉体(物体)だけの関係です、親子、兄弟,姉妹に宿っている魂は、いろいろな魂が入れ替わっているので魂だけを考えると、例え肉体は親子、兄弟、姉妹であっても魂たちは他人同士なのです、
これは空しくて淋しいことですが、仕方がないのです,これが自然の摂理なのです。

魂は寝ている間や、また起きている時でも、ちょっとした隙に肉体から肉体へ入れ替わっているのです、
また、魂の母体から魂を脳に出向させているが、皆、繋がっているのです、
だから、人が死ぬと、その魂は母体に吸収されて母体で一体となる、
魂の母体と個々の魂は、つながっているのです、つまり魂の母体から触角のようなものをいっぱい出ていて、そのひとつひとつが動物の脳細胞につながっているようなものです、言わばイガグリやウニ、又はクラゲのようなものだと想像してください、

〔魂の科学 4〕
世の中には二代も三代も幸せな生活が続いて一向に不幸な時代が無い家柄の人達もいるでしょう、
でもそれは幸せな暮らしをしているのは肉体(物体)であり、魂は次から次へと母体を通じて入れ替わって渡り歩いているのです、
だから苦労ばかりしている肉体にいた魂が、時には幸せな暮らしをしている肉体に入れ替わっているのです、でも、自分の魂が他の人の脳へ入ったとは感じないのです,魂は、その肉体が何十年も生きて来て色々な生活を体験して記憶されている脳細胞に支配されているからであります、

魂自身は、こう思ったりああ思ったり、また考えたりする事も出来ないし意識も無いのです、言わば空気のようなものです、でも、それが真の自分なのです、考えたり思ったり思い出したりする事は全て脳細胞がそうさせるのであります、つまりこれが意識なのです、意識は魂と脳細胞が合体している状態なのです、
脳細胞は魂ではありません、脳細胞も肉体の一部です、

例えば、大工さんが亡くなり肉体は死に、魂は抜け出て、今度は漁師の肉体(脳)に入ったとする、
そして漁師の魂と融合して、その肉体で暮らすのです、

そしてその漁師の肉体が40年間ずっと海で暮らし、その生活や漁の体験を記憶した脳細胞に支配されていて記憶にあるのは漁師の過去だけであり40年間ずっと自分(漁師)であり、長い間、苦労してきたと思い、今も尚、続いていると思うのです、

だから大工の脳に滞在していた元の魂は新しくこの漁師の肉体(脳)に入って来たとは思えないのです、

そして魂は肉体が死んだら他の動物に移動するだけでなく生きている時でも他の動物に入れ替わることもあります、

そして、その肉体(脳)に何ヶ月か滞在して、また他の肉体(脳)に移り替わって行くのです、そしてまた、その肉体の脳細胞の考え方や経歴に支配されて生きて行くのです、
支配されるといっても、魂がその脳に入れば自分の考え道りに行動しているように思えるのです、その人になりきってしまうのです、


そしてその肉体(脳)に何日か滞在して、また他の肉体(脳)に移り渡って行くのです、このように数多くの魂も皆、同じように移り替わっているのです。

魂には脳細胞がないので肉体の脳で意識を感じるのです、

それでも魂が本当の自分なのです、

世間の人は、魂が人間の脳に宿って意識がある時だけが自分と思っている、だから肉体と意識が無くなれば全て終わりと思い込んでいる、

人間の体は、唯の物体であります、
未来永劫に輪廻転生して続いて行く魂が自分なのです、

〔魂の科学 5〕
例えば、子供が産まれ、脳の細胞が少しずつ形成され、魂の受け入れ準備が整ったら魂は魂の母体から出向して来て脳に入るのであります、魂は赤ちゃんの体の中から出来るものではなく外から入って来るものであります、魂の母体が分裂して、そのひとつが来るのです、分裂といっても、実は、つながっているのです、冒頭にも述べたように魂の母体から触角のようなものが伸びて脳につながるのです、また意識不明の状態は脳細胞が麻痺して、魂が脳の細胞の中では滞在が不可能となり、魂は脳から離れる、この状態をいう、離れた魂は母体に帰り、母体と一体になって待機する、そして体の調子が良くなり脳細胞も正常になると、魂は魂の母体から出向して来て脳に入る、そして意識が回復する、この場合も同じ魂が出向するとは限らない、別の魂かも知れないのです、
また、人間が死ぬ時は、脳の細胞が麻痺して魂の滞在が不可能な状態になって、魂は、その人の脳から離れて魂の母体に帰っていく、そして肉体は死んでしまう、母体に帰った魂は今度は何処の人の脳に出向するかわからない、

また魂が入るのは赤ちゃんからとは限らない、
子供の脳に出向するか、また老人の脳に出向するか解らない、
肉体が死に脳から離れた魂は、魂の母体に帰り一体(同化)となって、そこからまた出向して他の生きている肉体の魂と融合して一体となって、その人間の脳細胞で生きる,

この一連の変化は瞬時に行われるから意識は肉体が死んでも魂は次の肉体に、即、移り替わっている、
だから意識はそのまま引き続いてあるのです,
(前の人間から今の人間に移り変ったとは思えないのです)、

例えば一つの肉体に入っている魂は過去亡くなられた数人の魂の集合体の場合もあります、

魂の性質は水と同じようなもので一滴の水と考えて下さい、一滴の水と、一滴の水を合わせば交わって一滴の水となるように魂と魂が交わると同化するのです、数個の魂が交わっても同化してひとつの魂となるのです、魂は空気の様なものですが、性質は水のようなものです、

挿絵3

脳細胞から魂が離れれば脳細胞はただの物体であります、魂は空気のようなものですが主なのです、だから幸せな生活をしている肉体も、魂がなければ、その肉体は幸せも何もないのです、また病気で苦しい生活をしている肉体も魂がなければ、その肉体も苦しいことも何もないのです、魂の抜けた肉体は唯の物体であるからです、だから楽しいと感じるのも、痛いと感じるのも、その脳細胞に魂が入っているからであります。普通の言葉で「私」「自分」というのは、目に見えるこの肉体や脳細胞のように思えるが、本当の「私」「自分」というのは、魂のことです、魂が主で、肉体や脳細胞は主ではなく物体なのです、これを「主魂体従」という、

挿絵4

〔魂の科学 6〕
世の中には 「私は三十年、病気で苦しんできて、幸せと感じる日が一日として無い」 と嘆いている人でも、その魂は、実は2.3日前まで幸せで健康な人に宿っていたかも知れないという事です、たしかに肉体は三十年も病気をして苦労ばかりしているのです、でも魂は別のもので入れ替わっているので、この病気の肉体に三十年も同じ魂が滞在しているわけではないのです。ほんの2.3日前に入って来たところかも知れないのです、それと反対に幸せな生活をしている人も、幸せが長く続いていると思ったら間違いです、魂は幸せな肉体に入って間が無いかも知れないのです、それまでは苦労している肉体に長い間、滞在していたかも知れないのです、魂が肉体から他の肉体へ移っても、魂には脳細胞が無いので前に居た肉体の事を記憶できないのです、だから新しく入った肉体の脳細胞の記憶だけしかないのです、だから魂が入れ替わった感じは、まったくしないのです、

例えば、朝起きる、窓を開け、外の景色を見る、いつものように山があり、左の方に町がある、毎日、同じ景色を見て飽きている、しかし、飽きているのは肉体だけであり、魂は、色々な肉体へ移り変わっているので、魂自身にとっては目新しい景色なのです。
このような訳ですから、魂が入れ替わっていても入れ替わった感じは、まったくないのです、明けても暮れても同じ肉体に居るように思えるのです。魂は、色々な体験や経験をしているのです,中には事故に遭う直前の肉体から出る魂と、その肉体へ入る魂があるかも知れない、その時出る魂は良いが入った魂は直ちに事故に遭遇して嫌な体験を余儀なくされるのです、まさに、様々です、


魂達は、千姿万態の肉体へ順番のように入れ替わっているのです。神様は、なぜ色々な肉体を作られたのか・・・病気になるような肉体は作られなくてもよいのに・・・と思うのですが、それは想像しても解るように、皆が健康だったら健康の喜びもわからない、皆が金持ちだったらお金の有り難さがわからない、
親鸞聖人も、おっしゃった、煩悩を無くしては生きられないと言われた、煩悩には色々あるが中には他人の不幸は蜜の味、というのも、また昔の身分制度など自分より下を作って優越感を味わったりして楽しみ、幸せを感じていた、
また、逆に自分に降りかかる恐怖も、亦、楽しい、という節もある、人間は刺激もなければ面白くないし楽しくもないのです、
だから皆が平等だったら無味乾燥な面白くない世の中になってしまうのです、
だから神様はこの世に善人だけでなく悪人も大勢作られたのです。

ところが現在の宗教界では、因果応報の教えがあり、良い行いをすると後日幸せになり、悪い事をすると後日不幸になるとか、現世で悪い事ばかりしていると因縁が悪くなり、来世は災害に遭ったり重い病気を背負う様な人間に生まれ替わってくる、と言われています、それではなぜ現世で悪い事ばかり考える脳細胞を持った人間に生まれて来たのか・・・決して、そんな悪い事ばかり考える人間に生まれたいとは思っていないのに・・・と疑問を抱くはずです、また現世で良い行ないをしていても病気で苦しんでいる人には 「あなたは前世に人を苦しめてきた報いが現世に現れているのだ」 と言われている、(究極には必ず、この言葉で辻褄を合わせるのが現在の宗教です)
では、なぜ前世で人を苦しめるような人に生まれたのだろう、と疑問を抱かざるを得ないのです。(また、海で溺れている人を助けようとして自分も溺れて死んでしまったという事もよくあることです、この事を因果応報の見地から考えた時どう解釈できるのか)ですから、このような宗教の教えは論理が成り立っていないのです。

〔魂の科学 7〕
脳細胞は、皆、同じではないのです、悪い道に走りやすい意思の弱い脳細胞を持った肉体や、悪い事は絶対しないという意思の強い脳細胞を持った肉体もある、
これは,どちらの肉体も最初から神様がこの世に作って置かれているのです、
でも、どんな肉体へも魂自身が選んで入れないのです、神様が肉体を選び、魂を選び、して、魂を肉体に入れておられるのです、ですから、人間が良い事をするも悪い事をするも、皆、神様が決められる事なのです、
だから魂はどのような肉体に入れられようと一度入ったらその脳細胞に支配されるのです、その脳細胞の中で人間は、自由に考え、行動して思うままになっているように思えるのです、
ところが世には私は「努力したから出世したのです」と自分の力で運命を切り開いたように言う人も、そうではないのです、始めから努力するようにセットされた脳細胞を持った肉体を与えられただけの事なのです。

神様が作られた脳細胞のプログラムで人間の行動も考えも決められているのです、
ですから、人間がどのように考え、行動しょうと、初めから、そのように考える脳細胞、そのように行動する脳細胞なのです、それは皆、神様が作られたシナリオ道りに考え、行動しているのです、
だから、この世は人も社会も、なって来るままが神様のシナリオ通りなのです、

この世には自分の物というのは何一つ無いのです、体も、心でさえも神様からの借り物なのです、しかし、そうなると、人を騙しても殺しても皆、神様のせいとなる、人間には責任が無い、という事になる、そうなると世の中が物騒でたまらない、ところが、人を騙したり殺したりすると罪悪感がします、それが良心の呵責というものです、これも神様が、そのような本能を持った脳細胞を作っておられるのです、だから、世の中の治安や秩序が保たれているのです、良い脳細胞を持った肉体も悪い脳細胞を持った肉体も、また幸せな境遇の肉体も不幸な境遇の肉体も、皆、神様の道具であります、だから人の一生というものはその道具の人生であります、そして神様が魂に、あの道具を持たせたり、この道具を持たせたりして人間の・・・いや、魂の公平を保っておられるのです。

これが、神様からの 「貸し物、借り物」 の所以であります。神様は決して差別をされるような事はないのです、だから、お金持ちの人や健康な人を、羨む事はないのです、、神様は多くある魂を、お金持ちにも健康な人にも成れるように色々な肉体の脳に、まんべんなく、むらなく入れ替えをして公平を保っておられるのです、

だから早死にしても長生きしても損も得もないのです、
これを 「短期滞在魂入替論」 と称します、以上が魂の真理です、

この様に推論すれば理に合いますが定かではない(断言するのは神への冒涜になります)

( 魂の真理 河原乙人 著S.61.8.24 発行)

 

私は子供の時から病気で何度も死に直面して来たので本能的に魂の存在とそのシステムがインスピレーションとして感じられるのです、これは健康な人にはこの本能は眠っているので解らないのです。

尚、2021年に脳科学者の茂木健一郎も橋下徹との対談でこんなことを話していた、
脳も物質ですから、物質である以上、物理法則で動いている訳で、
そうすると法則で決まっちゃっているから、殺人しちゃうという事は、本人がやろうと思ってやったんじゃなくて、もう、脳がそう動いちゃっているんだ、という事なんですね、と言っていた、
茂木健一郎も、この部分だけは私と思いが一致している。

 

世界的に有名な脳外科医ペンフィールドは脳と心は別物だという。

 

作家五木寛之氏(作品杖言葉)も因果応報論は理不尽な現実に対しての辻褄合わせだと語っている。

 

宗教で大事なのは魂(霊)の存在と輪廻転生という重大な問題を極めることが宗教の所以なのです。