人間は、生まれ、死んでいくこと、我が力であるように思いこみ、

生死する我が身を、手づかみにしている。


自分の力こそ、最大最強の真実であると、思いこんでいる。


何事に対しても、力なく、嘘偽りの自分であることは、向こう側へ…


私は、決してそんな者ではないと、自分を駆り立てていく…


自分自身でも気づいているであろう、この無力さを…

 

であるにも関わらず、何かにしがみつき、自分の力を信じこもうと必死にしがみつく…


何かにしがみつき…


私人間がしがみついているのは、存在する事のない、ここに在ってほしいと願うものである。




在ってほしいと願うもの→自分の自己満足のため


在るのにみようとせず感じようとしない→真実から目をそむける




何に躍らされ、何に迷っているのか…



私人間が、迷い苦しみ、悩み、もがき、泣き崩れてゆく姿…



自分を哀れであると、抱きかかえてゆく、私の思い…思いこみ…




親鸞聖人は、愚者と自身を言いきっている。



私も、「愚かだな~」と自分を表すけれど、

慰めと愚かだな~ということだ…



おそれ多い話だが、親鸞聖人と、全く違う。




そのことは、今気づいた…



情けないが、出来る人間というところにしか立てない私は、自己防衛するところから始まっている…



ああ・・・・・・・・・・・・・・



自己防衛 ×

自己追求 ○



ちょっとの違いが大きな違い。



闇への道は、自分によって作っていることに改めて気付かされる…



声なき声を聞き、

姿なき姿を真実としていただいていくには、


このまずもって、発生する我が感情を制御せねばならない…


真実をも、闇によって見えなくさせている、恐ろしい私の思い、感情…



闇によって惑わされているのではない。


闇を悪とするのではない。


闇を作っているのは、この私だ…


私がすべてを闇としているんだ…



これまで、闇があるから、私が苦しめられると思っていたけれど、違った…


闇ではなく、私自身が闇をつくり、私自身が闇となって、自己を見えなくさせている…



他のせいにしていた…



納得するところの、大きな間違い…



ああ…



私のみ、真実であると思っている私が私の中にいる…



仏のみ真実であると、聞いて解って、納得しているように思っていたけれど、そんな出来の良い私ではないはずであった…



そう、私が考えることは、私の闇によって考え出されている勝手都合のよいものであるのだ。


私の頭で考えることは、自己追求ではなく、自己防衛であるのだ。


情けないというか、そんな言葉もおこがましいなぁ…



どうにもこうにもならん!!



間違った考えしか生まない私…


自己防衛しかできない私…



私に考えられることなんて、一粒もないんだ!


私の勝手都合による考えに、考えていいことなんてないんだ!



だから、聞法だ!!!!!



人にたずね、仏に訪ねさせていただく。


我が身の発見は、他によってなされるのだ!


勘違いも甚だしい…私は頼るものではないのだ!


あぁ…


一体何なんだあせる


仏法を聞いた気になって、教えに育てられている気になっている私がいます。


全然聞けていないです。


私の勝手都合だけの世界、心、感情、でしか生きていない私です。




自己防衛 × 嘘偽りの我が身に依って、一瞬の自己満足の為に生きる。


自己追求 ○ 真実の教えにわが身を心を依せて、生きることをたずねさせていただく。




私の目も耳も口も鼻も、心も頭も、私のすべてが仏にいただいているにも関わらず、

自分で、自分を覆って行く…


わが身を闇のマントで覆った、目のない私…耳のない私…ということか・・・




親鸞聖人は、「無眼人」「無耳人」とおっしゃっておられます。


見抜かれた私が生きる道は、やはり、親鸞聖人の御教えであります。




南無阿弥陀仏