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わたしは昔から親に「

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この記事に対しての日記は、少し考えさせられるものが多かった。
だが、ある女性と思われる方の視唐ヘ、あまりにも俺はこの人たちと同じようには思えないと漠然と思っていたことをずばりと文章にしていた。
自分の中でもすこしまとまったので、書いておきたい。
だが、このもやもやした思いは消えそうにない。
それは、自己矛盾でもあるからだが、それは、この女子高生の立場に立ったものではないし、記事の踏み込んだ内容までも、背景も事件の経緯もなにも知らない人間が、かってに憶測でつむぎだしたものだからだ。
記事は、なにを伝えたかったのか。
結果として何を残したのか。
記事を読んで、日記を書いた人の意見、それらはきっとそんなときに精嵩Iにすがろうとするものを、中に持っているか、外に持っているか、の違いが大きく出てくるのだろう。
ただ、ひとつ最初に断っておく。
やはり、当事者でもない人間が、好き勝手言うのはある種の暴力であり、だれかのための救いではない。
自分の意見の正当性と言うものに裏打ちされたように思える、対象となる人が愚かである、と卑下したい人に対する問答無用の正義という名の暴力だと思う。
いや、正義でもないな。
正義のように見えるけれど、他人をこき下ろすのに誰もがやっていそうな自分に非難の刃がとどかない、遠距離からの言葉の矢だ。
勇気に比較は無意味これができるぐらいなら恋人 出会い、こっちの方が簡単だったろうに、なぜそうしなかった的な話は、無意味だ。
それは、当事者を理解していないから、自分の理解の及ぶものでしか考えていない証左だ。
自分の理解以外の考えなど、最初に思いもしないから理解できないで止まっている自分だけの意見を吐くのだ。
自分と他人は違う。
他人と自分の意識のズレはどこにでもある。
それは、一つに統一せねばならぬことではない。
それは、やってはいけない思想統制だ。
それを統一した先にあるものが、宗教の縛りだ。
ここに縛られた人は、そこに属する宗教以外の考え、答えの求め方が理解できない。
そういう人の文章は、哀れだ、愚かだとしめくくる言葉が並ぶ。
そしてそれに同意を求める。
異ヘ認めない。
それは、その言葉を吐かせる宗教の本質だ。
そんな宗教からは脱却することが、そういう意味での精嵩Iな解脱につながるというのに、そこにいつまでもとどまるのを見るとまたかという思いもある。
倫理や道徳的に正しいことで誰かをバッシングするのは、快感だという事実。
しかし、その行為は倫理的にも道徳的にもほめられた行為ではないということだけれど、それがさっき言った自己矛盾の刀B
つまり、バッシングしてる人達は自ら、破たんした揩W開し、実践している。
救いを求める宗教の根底を提示しながら、自分はもう救われているのに、あいつはその教えを知らないから救われなかった、馬鹿だねと言っている。
隣人に愛を、とうたう宗教を信奉している人間が哀れだ、愚かだと他人をコケ下ろす意見を書いており、それに同調したそういう信者その考えの理解者に同意という名の賞賛をくべる。
なんなんだろうと疑問に思うのも不思議ではないと締めくくる俺の意見も、それにちかいのが心苦しい。
人間は、すべて救えるものではない。
いま、その場で取った行動が、一生の後悔となることもあろう。
だが、それも、すべて他人がとやかく言うことじゃない。
この女子高生の罪は、本質的にはどうだったのか。
それを考えるのもイイがね。
おれが最後に言いたいのは、こんな記事を世に送り出して、いいわけねーだろうがということだ。
政治家の腐敗や、その他伝えるべきことはたくさんあるのにだ。
こんなニュースは、流さなくていいだろう。
そんなものを訳知り顔で語るコメンテーター気取りとか、そんなの要らないって。
トイレで産声したがフラフラの女子高生が殺害読売新聞11月19日1755fromdiaryid2228052