義父母の会話をボンヤリと、堂々と眺めることは殆どありません。




真意を掴んだり、掴んだ上で気持ちを共感させること、理解し合った上で改善策を講じることを、度重なる衝突と、双方の誤解から、いつからか私が諦めているからです。





義父と目に見えない「人の気持ち」に関する会話をすることは今でも出来ません。せいぜい喜怒哀楽を伝えられるくらいです。





義母とはかなりスムーズに会話が弾むようになりました。気持ちや細やかな「事情」などを伝えられるようになると、格段に話題が豊かになります。




伝える方法次第なのだと、実感する日々。






先日、所用の帰りに義父母とレストランへ行った。
久々に、ボンヤリと堂々と、2人の会話を正面から見た。







分かる。
2人の会話の内容が分かる。
ハッキリ分かる。少し前は、なんとなく分かる、だった。

あんなに分からなかったのに。
サッパリ分からなかったのに。





義父の手が言葉になっていると今はハッキリ分かる。




(そりゃそうだ。義母と何十年と会話を重ねているのだから、言葉であるのは当たり前のこと)






分かってしまうとますます苦しいものがある。
私が積み重ねた誤解認識した部分が明白になること。誤解であって欲しいと願った部分が、期待に過ぎなかったこと。
そして、優しさをちゃんと受けているということ。




関わり方次第で、改善(?)が可能になってしまうこと。






しんどいな。
今でもウニョコの頬に傷痕は残っているし、クマジが入院した時、救急車で運ばれた時。タツコが階段から落ちた時。私自身が入院した時、病気になった時。思い出したくないと意識する事柄こそ、忘れられんでしょ。どれも苦い。





手話が好きで通訳者になりたくても、勉強を重ねても、どうにもならない感情はあるものだなぁ。






疲れたからボヤいているだけよぶー
今日は田植えでした。


こいのぼりを見上げて、クマジそしてタツコとウニョコの成長を喜びましたかえる














磯遊び。