かつて、こんなことがありました。
ある大きな展覧会の工芸部門に応募したときの事です。
応募したのは、この観音菩薩坐像「智拳印」。
平成23年1月生まれ。高さ約28cm。
予定していた作品がサイズオーバーで、急遽その代打。
ラストの受け付け時の、女性審査員の老先生
机に置いた智拳印を片手でひょいと取り、こう仰った。
「こういうの何ていうんですか、大仏って言うんですか?」と。
「はあ?」と、私は目が点に。28cmが大仏?
「仏像はねえ・・・、オリジナリティーがないじゃない」
「これ、オンリーワンですよ。
木目込み人形にはオリジナリティーがあるんですか?」
「ありますよ~」
勿論あるとは思うが、比較できない手法である。
「ここ、工芸部門ですよね?」
「そうですよ」
「受け付けてはくださらないのですね?」
「仏像はねえ・・・・・」
初めてではないが、
男性の受け付け時にも「仏像はねえ・・・・・」と言われたことがある。
彫刻でしょ?
彫刻の受け付けへ行けば、工芸でしょ?と。
参加費だけとって展示されないことも。
この二体目の如意輪観音坐像は、川越に越してすぐに、
たまたま市美展があったので、初めて出品したところ、
初回では珍しいことらしいが、いきなり教育委員長賞に選ばれました。
これは規模の小さい展覧会だからで、その後他で入選はしても、
師不在の私が、賞に届いたのはこの一体だけ。
そこには裏話があって、繰り返す社会問題のひとつでもあるので、
ここでは触れないことにします。
要は、仏像は宗教めく部分が拭えないのか、排除されてしまうのだ。
世に、確たる仏師の存在は少なくないというのに。
したがって仏作は、展覧会への出品はその後一切せず、
展示はもっぱら自宅ギャラリーのみである。
しかしそこでも人の思惑はぞれぞれで、それに頓着することはないが、
哀しいかな時に人は、
黙って鎮座している観音像を傷つけるからいたたまれない。。
人や物を傷つけるのは、
自分がその相手に負けていることに気づいていない、弱い人・・・。
だ、そうだ。
そう思えば、蓮弁の1枚や2枚剝がされても
腹をたてることもなくなった。
でもねえ、
やっぱり憂えちゃうわよね~、現代の創作仏像さんたち~!
目下挑戦中のクラウドファンディングですが、
いじり過ぎてチョンボして、審査のクリアができていません。
トライ精神は旺盛でも、ロートルメカ音痴。
年またぎになってしまいました。><;
皆さま、
来年も油断なき心得で、
心身ともに健康で、良き年になりますよう、
お祈りさせていただきます。
合掌