点と点とが、線で繋がる時…。
祖父の遺品の中に、地元の小学校の封筒がありました。
日付は入っているものの、年が書いてないのでいつ頃のものなのか、ちょっとわかりませんでしたが、
想像するに、今から20年くらい前のものなのではないかと思います。
小学校の企画で、「歳上の友達を作ろう」ってことで、なぜかうちの祖父母に打診があったようなのです。
他所の家の子どもを家に招き入れることについて、うちの祖父母のことですから断る理由もなく、Welcomeしたようです。
で、子ども達(4名)からのお礼の手紙があって、簡単なメッセージを書く子もいれば、その日のことを詳しく書いてくれている子もいました。
ジジババはお菓子をたくさん用意して受け入れたみたいです。
私や妹に送ってくれたみたいな、子どもか好きなお菓子をバイクに乗ってきっと買いに行ったんだろうなーと想像できました。
当日は、ジッサマの自慢の貨幣コレクションも披露したらしく、子ども達にコインマニアと認定されて。(笑)
自分の祖父が◯郎さん、◯郎さんと連呼されてるのも何か不思議な気分になりましたし、それよりも祖父が子どもだった頃の話!
私も母も聞いたことのない話を、その時にしたみたいで、ちょっと嫉妬しましたね
尋常小学校の帰りに、お菓子屋さんで飴を作る手伝いをして、
上手にできたものだから、お駄賃的に飴をもらってたという、鮫川村での謎のエピソードです。
祖父は手先の非常に器用な人でしたが、お菓子屋さんが小学生に手伝わせるかね?と疑問に思ってました。
またジッサマのことだから、話を盛ってるかも?という疑惑すら抱きましたよ
ある日、国立国家図書館のオンラインで、私は棚倉町史や鮫川村誌を読んでいたのです。
そしたら、棚倉町史に高祖父の父の名前が何度も出てきました。
この家は江戸時代の大火と、戊辰戦争で何度も火災に遭ったようなのです。
戊辰戦争後はお見舞いのお米が配給されてました
武士が勝手に始めた戦も、庶民には全く関係の無い話で、家が火事になるなんてトバッチリも良いところですよ。
ぶっちゃけ、どっちが勝とうと、庶民には構わなかったのではないかとさえ思います。
勝敗の行方よりも、自分の家財道具の無事の方が大事だよなぁってね。
だから、ある種、一家離散的に没落?したのかなーって想像しました。
これが一族が浅川町や鮫川村に移り住んだきっかけかなと思います。
で、鮫川に移り住んだ高祖父が鮫川村誌に写真付きで登場して、度肝を抜きましたよ
名前の字が一文字違っていたんですが、棚倉から鮫川に移住したことも書かれていて、これは間違いないと思いました。
棚倉での生業には触れていなかったですが、鮫川では菓子商をしていたそうです。
祖父が学校帰りに手伝っていたのは、もしや高祖父のお店だったのではないか…?という仮説ができました。
その影響なのか知らないけど、祖父は本当に甘い物(和菓子)には目がなくて。
帰省した時にお饅頭なんかを持って行くと、おやつにも食べるんですが、朝起きたらご飯の前にも食べちゃうような人でした
それでよく、母が怒ってましたね。
高祖父が出てきたのもビックリでしたが、巻末の方に曾祖父の店の広告を見つけて悲鳴を挙げました
私も母も屋号すら知らなかったですが、フルネームで◯◯◯太郎商店だったんですね
お店のロゴマークまで入っていて、Tシャツでも作りたいくらいですよ。(笑)
その前に、祖父母のところから遺品のアルバムを引き上げてきて、見たことのない爺様の写真が挟まってると思ったら、それがこの曾祖父でした。
その写真をめくってみたら、生繭売買の許可証で、許可期間が昭和27年7月から昭和30年6月のものでした。
呉服屋で、今では良く分からない話ですが、生繭の仲買をしていたみたいです。
前述の通り、曾祖父が亡くなったのが昭和31年3月のことですから、この写真は本当に晩年のものだったんだなと分かります。
曾祖母の写真も見てみたいものですが、そんなに裕福でもないから(?)写真そのものが少ないですし、
年配の女性が写っているものは皆無に等しいですね