こんばんわ
すっきりとした青空になりました
みなさんご無事でしたでしょうか。
ツツジやさつきの剪定をして礼肥をあげました。
畑はジュクジュクで入れませんが、
花壇や庭などの草はおもしろいように根っこから抜けました。
のつづきです。
人間関係を分けて考える
共同性と相補性
現実の具体的な人間関係は複雑に見える。
しかしざっくり考えると、関係というのは「同じか、違うか」
という2種類しかなく、
あとはその組み合わせにすぎない。
人間を基本的に同等であるとみなすのが社会の基礎だ。
しかしこれは社会という観点から
人間をまとめて見たときの考え方であって、
個人はそれぞれまったく違う。
このように、人間には「同じ」と「違う」の2つの側面がある。
「すべての人が同じ」なのが社会で、
「一人ひとりそれぞれ違う」のが個人だ。
これに加えて第三者の場合がある。
「この人とこの人は、この点で同じ」や
「何人かの人は共通だ」という場合だ。
この「同じ」や「共通」が人々を結びつける絆となり、
身近な関係をつくっている。
このような「同じ」で結びつく関係を、「共同性」と呼ぶ。
「同じ」があれば仲間になりやすいし、
共通点が増えれば増えるほど絆が強くなる。
一方で、違うからこそ結びつく関係、「相補性」もある。
お互いにリスペクトして、補い合う関係だ。
「同じ」で結びつく共同性と「違う」で結びつく相補性を
より具体的に考えてみると、
共同性は「同じサッカー好き同士で遊ぼう」
などといったふうに広がりを持つ、拡張できるという特徴がある。
一方で、相補性はお互いの違いがぴったり合って補い合う形なので、
むしろ閉じた関係性を作りやすい。
そういう意味で、共同性は社会に近く、
相補性はより個人的な性質を持つ。
一口に身近な関係といっても、幅があるのだ。
身近な関係は必要か?
人は一人では生きられないのか?
結論を先に言うと、
「人は一人では生きられない」は基本的に正しい。
あらゆるサービスやプロダクトは
自分以外の誰かがつくったものであり、
私たちはそれに依存しているからである。
ただ、そうしたものは「身近な関係」ではなく
むしろ「社会」の中で享受するものである。
だからそれだけだと、
「人は一人では生きるのは難しい。
少なくとも社会がなければならない」
とは言えるかもしれないが、
「身近な関係は必要なのか?」という問いの答えは出ていない。
「身近な関係」といっても、そのあり方はさまざまであり、
だからこそ意見が分かれてくる。
ゆえに本書では、「身近な関係」を4つに分けて検討してきた。
その分類に従って考えてみると、
親子関係のような「タテの相補性」は明らかに必要なものといえる。
また、会社での上下関係のような「タテの共同性」は、
生きるためにというより、
限定された目的のために必要だと言えそうだ。
では、友人のようなヨコの共同性はどうか。
これは生活や何かの活動において必要とまでは言えないかもしれない。
同様に恋人のようなヨコの相補性も、
絶対になければならないわけではない。
恋人や配偶者がいない人だって多くいる。
以上より、「身近な関係は必要か?」という問いに対しては
「必要。ただし、身近な関係全部ではない」という答えが出せた。
「身近な関係」はどういう意味で必要か?
タテの関係はうっとうしくても必要だが、
ヨコの関係は必要ないとは言えない・・・。
この答えにモヤモヤする人もいるだろう。
ここで捕捉したいのは、タテの相補性は誰にとっても必要なのに対し、
友だちなどのヨコの共同性は人によって大事さに
違いがあるということだ。
ヨコの共同性や相補性は、全員にとって必要なものではない。
必要とする人もいれば、そうでない人もいるだろう。
このことを理解せずに「友だちは必要なんだ」と主張し、
自分ひとりで生きていける人や生きていきたい人に
押し付けてはならない。
逆に「友だちなんか必要ない、人間はひとりで生きるべきだ」
と主張したとすると、
ほかの人たちといっしょに生きていきたい人たちの
想いを踏みにじることになるだろう。
必要かどうか、そしてその先にある問題
とはいえ現実的に考えると、
「身近な関係」を取り除いてひとりで生きるのはほぼ不可能である。
ある一定期間においては可能でも、
私たちは病気になったり年を取ったりしてほぼ必ず弱り、
「身近な関係」を求める。
生活保護制度や健康保険制度が
カバーしてくれる部分もあるだろうが、
熱があってだるいときに手を差し伸べてくれるのは
「身近な関係」だ。
さらに「必要/不要」を超えて「幸せ/不幸せ」についての問題もある。
私たちにとっての幸せには、どうやら「自分の好きなことができる」と
「身近な関係の中で生きる」の2つがあるようだ。
「身近な関係」が幸せにつながるか否かは
人によって意見が分かれるが、
「身近な関係の中で生きる」派の人にとっては
やはり大きな価値を持つのである。