おだやかに、シンプルに生きる➁ | ふーちゃんのブログ

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私のブログは、離れて暮らす子どもたちと孫たちに向けて書いています。

こんばんわニコニコ

 

 

 

 

わが家の周りでは田植えの準備が始まり、

ツバメがワクワクしているのを感じます。

雨も上がったのに妙に暗いなと思ったら、今夜は新月ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

のつづきです。

 

 

 

 

ベル喫茶喫飯(きっさきっぱん)

禅僧にとっては日々の生活すべてが修行だとされている。

一杯のお茶を飲むことも単なる休憩ではない。

しっかりと背筋を伸ばし、お茶を飲むことにのみ心を集中させる。

お茶そのものになりきった気持ちでいただくのだ。

食事も同じで、野菜を育ててくれた人や魚を捕ってくれた人に感謝し、

その食事になりきるように努めていただく。

禅の修行においては、すべてがこの「喫茶喫飯」の心持ちで行われる。

 

 

仕事は辛く、遊びは楽しい。

そう考える人は多い。

遊ぶためのお金を得るためだけに仕方なく仕事をしているとしたら、

それは仕事にも遊びにもなりきっていない。

辛さや楽しさは仕事や遊びのなかにあるのではなく、

自分の心のなかにあるものだ。

仕事が楽しくて仕方がないという人は、仕事になりきっているのだ。

 

 

仕事にしろ遊びにしろ、

いま目の前にあることから目をそらすことなく、

そのものになりきることだ。

苦しさや辛さは、そのものになりきれない自分の心が生み出すものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人づきあいの心得

ベル挨拶(あいさつ)

日常的に行われる「挨拶」も、じつは禅からきている言葉。

禅僧同士が出会ったときに相手の力量を確かめるために問答をすることを、

「挨拶」と呼ぶ。

挨拶は修行の深さをはかる始めの言葉だと言える。

 

 

 

すべての物事は一瞬にして成るものではない。

必ず長い時間の積み重ねがあり、その努力の結果として物事は進んでいく。

それは人間関係においても同じだ。

初対面の人とすぐに打ち解けた気持ちになれることもあるが、

そのように築かれた人間関係ははたして深いものだろうか。

本来、人づき合いに上手下手はないが、

上手に人とつき合いたいなら他人への気遣いを身につけることだ。

 

 

自分から積極的に話しかけるのが苦手だという人は、

挨拶を欠かさないようにするといい。

たとえば毎朝会社に行ったときに、

人間関係を築きたいと思う人に挨拶をする。

毎日挨拶を続ければ、相手もあなたを覚えてくれるはず。

1年も続ければ一緒に食事に行く仲になるかもしれない。

 

 

 

人間関係を築くにはそれなりの時間が必要だ。

流暢に話せなくとも、挨拶から始めて

少しずつ会話を積み重ねることで信頼関係は深まる。

焦りは禁物だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベル白雲自在(はくうんじざい)

空を見上げれば、白い雲が風に乗って流れていく。

雲は何のこだわりももたず、自由自在に大空を流れる。

人の心も同じようにありたいものだ。

「白雲自在」は、こだわりや執着を捨て、

自在に生きていくために禅の修行があることを説く言葉だ。

 

 

こだわりの心は悩みを生む。

たとえば自分のいまの仕事に執着すると、

自分にはこの仕事しかないと思い込んでしまい、

他の可能性が目に入らなくなる。

人間関係でも同様だ。

 

 

周りに流されて生きるのは悪いことだとよく言われる。

たしかに自分をもたずにただ流されてしまうのはよくない。

しかし、自分という芯をしっかりもちながら大きな流れに

身を任せるのは悪いことではない。

自分の行先を見失うことなく、

かつ自分に流れてきた風を感じ取り、それに乗ってみる。

元いた場所や自分にこだわらず、

あえて流されてみることで見える風景もあるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベル白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)

現代人のストレスの多くは、人間関係から生まれている。

私たちは多くの人と助けあい、

かかわり合いながら、生かしていただいている。

それは温かで素晴らしい関係だが、

そこから逃れることができないために、ストレスにもなる。

 

 

会社に行けば嫌な上司と顔を合わせなければならない。

しかし、その上司と顔を合わせなければならないのは

会社にいる間だけだ。

時間にすればそれほど長くないにもかかわらず、

私たちは必要のないときまで嫌な上司の顔を勝手に思い浮かべ、

気分を落ち込ませている。

通勤中や休日でさえ上司のことを考えて嫌な気分になるのは、

自らの首を絞めているようなもの。

 

 

嫌なことを忘れ、気持ちをリセットするために必要なのは「孤独」だ。

人間には孤独な時間が必要だ。

物理的に一人になる環境をもつだけでなく、

心の持ちようでも孤独になれる。

孤独になって考えることで、物事を左右されることなく、

自分自身の心に正直になって考える。

そうした孤独のなかにこそ、おだやかな心を保つ秘訣が隠されている。

 

 

 

「白雲がゆったりと広がり石を抱いている」というのが

「白雲抱幽石」という禅語の意味だ。

世俗とのかかわりを絶った孤独な環境にこそ、

真の修行の場があると考えられてきた。

私たちは世俗から離れることはできないが、

心だけは自由にそこから離れて孤独になることができるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事に向き合う心の持ち方

ベル人間到処有青山(じんかんいたるところせいざんあり)

いまやっている仕事は天職ではなく、

他にもっと自分の能力を活かせる職場があるはずだ。

そんな不満を抱きながら仕事をしている人は多い。

しかし、そういう人は多くの場合、

転職や異動の希望が叶ったとしてもそれはそれでまた不満を言うものだ。

 

 

 

天職などというものは幻想に過ぎない。

生まれながらに特別な才能をもち、

それを生かす環境を整っている人間など、ごくわずかだ。

ほとんどの人は、自分の力と努力で仕事を天職にするしかない。

自分が置かれたところで与えられた仕事をただ一生懸命やり続ける。

その先にこそ、自分の天職が見えてくるものだ。

 

 

天職とは与えられたものではなく、自ら創り出していくものである。

「人間到処有青山」という言葉には戒めの意味が込められているのではないか。

どこかに素晴らしい場所があると思い込み、

地に足をつけずに心が彷徨い続けている状態では、

自分の居場所は見つからない。

人生では、思うようにいかないことも、

隣りの芝が青く見えることもあるだろう。

それでも目の前の仕事をやり抜くことだ。

その仕事のなかにこそ、きっと青山がある。

 

 

 

 

ベル放下着(ほうげじゃく)

「放下」とは「打ち捨てる」という意味。

「着」は「何々しなさい」という命令を示す。

つまり、これは「思慮分別や経験などもいっさいを捨てなさい」

という意味の言葉。

 

 

長い年月をかけて修行を積み、

自分はすべてを捨て切ったと自負するある禅僧は

「これ以上、何を打ち捨てろと言うのでしょうか」と師に問うた。

すると師は「捨て切ったという思いさえも捨てなさい」と答えたという。

執着心を捨てることがおだやかな心につながっていくが、

「捨て切る」ということは難しいものだ。

 

 

 

ビジネスで言うならば、捨て切ることが難しいのは、

肩書きや過去の実績だ。

現在のポジションも過去の実績も、ほんの数年で無意味なものになるというのに。

 

 

 

一方で、そんなものに頼らずとも人がついてくる人がいる。

そういう人は常に前を向いて走り続けているものだ。

これまでのキャリアにあぐらをかかずに、

常にそれを磨き続ける人にこそ、人はついてくる。

積み上げてきたキャリアに自信を持つのは悪いことではないが、

それにいつまでもしがみついていてはいけない。

その自信さえも捨ててしまうほどの心構えをもつことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新月には願いを、満月には感謝を。

どうか穏やかな毎日でありますように。

 

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

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