われは海の子 | ふーちゃんのブログ

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こんばんわ新月

 

 

 

 

本日6月29日は、75年前に岡山県岡山市にアメリカ空軍による空襲を受けた日です。

毎年この日の前後に小学校に平和教育の一環で特別な読み聞かせに行くのですが、

今年は新型コロナのせいで中止になっております。

 

 

火垂るの墓』など、数々のアニメーション作品で知られる故・高畑勲監督は、

岡山市の出身で、9歳の時に空襲を経験し、そのことが後の作品に影響を与えているといわれます。

妹をおぶって戦禍の中を逃げ惑うシーンは、

高畑監督自身のこのときの経験から描かれているとも聞いています。

 

 

 

「われは海の子」という力強い歌詞の歌がありますね。

山育ちのわたしも神戸に住み、海を見る機会が多くなったころには、

よく口ずさんだものです。

 

 

 

以下、内館牧子さんのエッセイから学んだことです。

 

この曲は、「海に育てられた男」という意味あいが強いそうです。

歌詞を読むと、海こそが自分を強く育ててくれたという気骨がわかります。

歌詞の2番では、

生まれてすぐに使う初湯は海水で、子守歌は波の音だったとあります。

そして海の気を体内に取り込み、育っていくという詞がつづきます。

 

4番になると、

「海は遊び慣れた庭」として、櫂(かい)を自在に使いこなすほどの少年に育っています。

 

そして5番、6番では、

何年も海で鍛えられたおかげで、腕は鉄より堅く、

肌は赤胴色に焼けていると誇っています。

海で育った男だから、氷山も竜巻も全然怖くない。

来るなら来いとあります。

 

 

こうして、海が男児を輝くばかりの青年にしてくれたのです。

 

 

しかしこの歌は、日本が第二次世界大戦に敗戦すると、

GHQのお達しにより、教科書から抹殺されました。

 

 

 

7番の歌詞がその理由でした。

 

 

 

いで大船を乗りだして

我は拾わん海の富

いで軍艦に乗り組みて

我は護らん海の国

 

 

 

この歌が作られたのは、明治43年(1910年)。

日露戦争後5年しか経っていません。

それから35年間歌い継がれてきたのですが、

GHQからのお達しには従うしかありませんでした。

 

歌詞に軍艦という言葉があり、

船の乗組員となって、

「我は護らん海の国」となっています。

 

「海の国」はつまり日本です。

これは危険な国防思想だととらえられたようです。

 

 

生れたばかりの男の子が海に鍛えられ、

堂々たる大人になっていく。

そこを格調高く書いた詞で、とても雄々しい。

であればこそ、GHQは恐れたのかもしれません。

「無条件降伏」で叩きのめした日本が、

またこんな歌で決起されては困る、そう考えたのでしょうか。

 

 

わたしは2番まではソラで歌えます。

わたしが小学生だった頃は確かに音楽の教科書に載っていたのですもの。

 

 

内館さんの調査によりますと、3番までは復活していたのです。

 

 

わたしの生まれた昭和33年に、

必須教材として教科書に載るようになった。

それにしてもよく復活できたものです。

昭和33年といえば、まだ戦後13年しか経っていないのです。

 

 

1~3番までは新生児から幼児の成長記であり、

磯の香りの中で大きくなり、松風を音楽として楽しんで育つ。

だから問題なしということだったのでしょう。

 

 

 

 

とにかく今日6月29日は岡山空襲の日。

犠牲になったみなさんを想い、「われは海の子」を里山の畑の上で歌いました。

どうか穏やかな世の中でありますように。

 

 

 

合掌

 

 

 

 

 

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アップ

文部省唱歌の多くが作者不詳とされるのは、

文部省が歴史的に作者を公表しなかったためらしいです。

ところが平成1年にこのわれは海の子の作者が、

宮原晃一郎さんだとクローズアップされました。

宮原さんの妻が公表したことによるものだとされています。

われは海の子の舞台は、鹿児島県の桜島と錦江湾らしいです。