言葉知らずの父と、言葉足らずの母に育てられたので、ぼくの言葉はなにかがおかしい | 文藝PIERROT

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サブカルに光あれ

「頭良いなあ」って言葉が、ぼくは小学生の頃から嫌いだ。

そもそも、ぼくは記憶力が皆無の男だからだ。物事を一語一句全て覚えるなんて芸当が出来る人間は機械仕立ての脳みそでも持っているのだろうかと皮肉を言いたくなるレベルに記憶することが苦手だ。本当苦手だ。他人の名前なんて覚えられた試しがないほど苦手だ。

ただ、その人物の名前は覚えていなくとも、印象的なエピソードがあれば覚えている。「あいつの名前はなんだっけな。たしか、酔っ払ったらネギを切る演技するよといって携帯をおもいっきり叩きつけるやつなんだけど」みたいな覚え方をしている。今でこそ声優さんの名前を知っていることもあるけども、昔は「あのさ。うる星やつらのアタルで、ドラゴンボールのピッコロで、そんでワンピースのエースって誰だっけ」という認識を持っていた。

簡単に言えば,要領が悪いのだ。クイズも記述だと全く出来ないが4択問題ならめちゃくちゃ強い。そういう傾向がある。頭の中に概念としてつまっていて、それそのものの名前はあんまり残っていることがないのだ。何故かそういう風にぼくの脳みそは機能しているのだ。はっきり言って現代社会では使い道の難しい脳みそである。

どうして、このような思考法しか出来なくなったのだろう。理由は分かっている。我が父だ。我が父は「言葉を間違えて覚える癖」がある。例えば、新選組副長の「土方歳三」を(ひじかたとしぞう)ではなく(ひじかたさいぞう)などのように、だ。その為、父の言葉をそのまま覚えるとあとで恥をかくことが多く、父の言葉の意味だけを理解する癖が付いた。

また、母も母で言葉の足らぬところが多いひとだ。これもまた読解力を鍛えるには丁度良い人材であった。ぼくが母の足らぬ言葉を予測して補填する術を身に付けたのは、ライターとして生活しはじめてからだ。それまではぼくも大いに言葉の足らぬひとだった。

嗚呼、もしかして、もしかしてなのだけれども、和歌山は読解力が試される土地なのかもしれない。相手の言葉の端々から文脈を理解する力を持たねば、会話をすることすら許されない。それが和歌山なのだ。

ぼくは友達がすくないので、他の和歌山人がどのような物言いをするのかは知らない。だがしかし、おそらくなのだが、みんな言葉の足らぬ物言いをしているに違いない。そうでないものは、和歌山人に非ずだ。べらべらべらべら、無駄な言葉を喋り続ける奴は和歌山人にとっては罰せられるべき悪徳なのだ。


しかし、言葉知らずの父と言葉足らずの母のおかげで、ぼくはよくわからん言葉遣いになってしまった。言葉は文化であり、魂の在り方だ。言葉がおかしいから、ぼくの人生はきっとこんなにもStrange(おかしくて)、Funny(おかしい)のだろう。
心にひびく日本語の手紙/朝日新聞社