『カシスウー論』 ~正義って、いったいなんだろうねぇ・・・編~


 こんにちは イイダテツヤです。 
 第76回『カシスウー論』は、「正義って、いったいなんだろうねぇ・・・』編です。

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 どうやら最近、「これからの『正義』の話をしよう ~いまを生き延びるための哲学~」
 という本が売れている。

 「これからの正義の話」ってなんだよ!
 「いまを生き延びるための哲学」って、どんなだよ!

 とまあ、普通に考えれば、わけのわからないタイトルなんだけど、
 「ハーバード大学史上最多の履修者数を誇る名講義」というキャッチコピーにひかれたのか、
 なかなかの勢いで売れているらしい。

 正義について語る哲学の本が(まして、2300円もするのに)売れているなんて、
 とても奇妙な感じがする。
 いったい誰が、どんなメンタリティでそんな本を買い、読もうとするのだろうか。

 売れているというから、一応私も買って読んでみたが、
 哲学の超難解な話を、簡単に、おもしろおかしく書いているかと言えば、必ずしもそうではない。

 あれでもずいぶんわかりやすく書いてあるんだろうけれど、
 そこはやっぱり哲学だから、それなりにややこしく、回りくどく、理屈っぽい。
 
 けっこうな読書家でもない限り、集中して最後まで読み通すのはむずかしいんじゃないかな、と私は思った。

 じつにどうでもいい話だが、私は大学の哲学科の出身だ。
 と、偉そうに言ったところで、中退してしまったので、出身という表現には語弊があるし、
 哲学らしいことは何一つ学んでいない。

 そもそも、大学受験をするときに「もっとも人気がなく、倍率が低い」
 という安易な理由だけで、哲学科を選んだくらいだから、偉そうなことなど言えるはずもない。

 そんなわけで、大学に入る前も、在学中も、大学を中退した後も、哲学の本などロクに読んだことはない。

 カントの「カ」の字も知らない私にとって、
 「これからの『正義』の話をしよう」は、決して易しい本ではなかった。

 しかし少なくとも、「正義とは何か?」という、普段だったら絶対に考えないテーマについて、
 思いを及ばすきっかけにはなった。

 正義とか、平和とか、人間の尊厳とか、道徳とか、
 そんなことは、四六時中考えるテーマではないけれど、
 3年に一度くらいは、真面目に考えてみてもいいのかもしれない。

 「これからの『正義』の話をしよう」には、そう思わせるだけの価値はあった。


 正義という言葉を辞書で調べてみると、「人として正しい行い」のことらしい。

 正義というと、正義のヒーローみたいな感じで、かっこよく、世のため人のため、
 というイメージを抱きがちだが、要するに「正しいことする」のが正義なのだ。

 すると、さらなる問題として、「正しいこととは何か?」という二次的な命題が浮上してくる。

 この連鎖的に深堀りしていく感じが、いかにも哲学的なのだが、そこを避けては通れない。
 そもそも哲学とは、連鎖的深堀りの道、そのものなのだ。

 真理へと続く迷宮は複雑であればあるほど、闇は深ければ深いほど、より哲学的だ。

 まあ、哲学素人である私としては、そんなふうに勝手にイメージしている。
  

 ちなみに、「これからの『正義』の話をしよう」では、「正しいこと」の答えを導き出すために、
 三つのアプローチを用意している。

 一つは、幸福を最大化すること。
 一つは、自由であること。
 一つは、道徳的観点から見て、逸脱しないこと。

 細かな表現は微妙に違うが、とにかくこの三つの視点から「正義の本質」を探ろうとしているのはたしかなようだ。
 
 たとえば、こんなケース。

 いま、あなたは鉄道の運転手で、目の前の線路は二股に分かれている。
 線路の分かれ目にさしかかったとき、
 ブレーキが故障して、列車を止めることができなくなってしまう。

 右側の線路には三人の作業員、左側には一人の作業員がいて、
 全員が列車の接近にはまったく気づかず、平然と作業を続けている。
 このままでは、誰かが犠牲になることは避けられない。 

 さて、あなたは右と左、どちらのルートを進むだろうか。

 必ず誰かを死に至らしめなければならないのだから、非常に苦しく、過酷な状況であることは間違いない。
 しかし、二者択一がむずかしいかといえば、決してそんなことはない。

 右には三人、左には一人。
 この事実を比較すれば、たいていの人は左へ進むことを選ぶだろう。
 私だって、もちろんそうする。

 三人を殺すくらいなら、一人を殺すに留めたほうがいい。ごく当たり前の判断だ。
 その選択を「人の道に反する、正しくない行為だ」と責め立てる人は、まずいないだろう。

 この過酷な状況において、
 それがもっとも大きな幸福をもたらす(もっとも小さな苦痛に留める)選択肢だからだ。

 では、設定を少し変えてみよう。
 一本の線路の上に三人の作業員がいて、そこへ向かって列車が近づいている。

 あなたは橋の上にいて、列車のブレーキが故障していることを(何らかの事情で)知ったとする。
 誰かが橋の上から列車に飛び込めば、その衝撃のおかげで列車を止めることができる。

 ところが、あなたはあまりにも小柄で、列車を停車させるほどの衝撃を与えることができない。
 つまり、あなたは身を挺して、前方の作業員三人を守ることができないのだ。

 そのとき、偶然にもまるまる太った男性が、手すりを乗り出して、列車の写真を撮ろうとしている。
 あなたは、その人の背中を軽く押すだけで、彼は橋から落下し、列車を止めることができる。
 つまり、その先にいる三人の作業員を救うことができるのだ。

 さて、あなたは彼を突き落とすだろうか。

 この設定も過酷な状況に変わりはないが、判断そのものがむずかしいかといえば、そうでもない。

 余程の事情がない限り、あなたは(そして、私も)目の前の人を突き落としてまで、
 三人を助けようとはしないだろう。

 つまり、前方の作業員のなかに最愛の人が含まれているなど、ある種特別な状況でもない限り、
 人を突き落としてまで三人を救おうとはしないのだ。
 おそらく、それが普通だろう。

 いったい、なぜだろうか。

 もし、幸福の最大化を考えるなら、一人が犠牲になって三人が救われる選択肢こそ、「もっとも正しい」と言えるはずだ。
 それを正義と呼んでもいい。

 しかし、それを「正義」と呼ぶことは私にはできないし、きっと多くの人が私と同じ意見だろう。

 太った男性にも自分の命を守る権利、自由があるし、
 それを他者が(いかなる理由があるにせよ)勝手に奪うことはできない。

 そこには、幸福の最大化より、個人の自由を尊重すべきだという考え方がある。
 あるいは、他人の命を勝手に奪ってしまうのは、道徳的に反するとも言えるだろう。

 結局、「正義」とは、(あるいは「正しいこと」とは)一筋縄ではいかないのだ。

 昔、「北の国から」というドラマのなかで、
 菅原文太が「誠意って、いったいなんだろうね」という厳しい言葉を田中邦衛に突きつけていたが、
 それこそ「正義」とは、いったいなんなのだろう・・・・

 正義なんて、大層で、非現実的で、どこか遠い世界の話かもしれないが、
 世の中には、そんな正義に関わる問題がけっこうたくさんある。

 たとえば代理出産は、子どもができない夫婦と、
 お金を欲している女性(代理出産を請け負う人)の双方に多大なメリットがある。

 そして、その契約内容に双方が同意しているとしたら、
 幸福の最大化としても、個人の自由としても、なんら問題はないはずだ。

 しかし、果たしてそれが道徳的に正しいと言えるのだろうか。
 それを正しいとするならば、売春だって、臓器売買だって、正しい行為とみなされるかもしれない。

 そのほか、徴兵制度の問題、クローン人間の話、自由市場の経済原理、
 福祉や相互扶助の制度、税制など、さまざまな分野で「正義」が大きく関わってくる。

 そのどれもがむずかしい問題だし、
 本来的に「正解を導き出すような問題」ではないのかもしれない、とも思う。

 究極の正解を求めるのではなく、
「そんなふうに言われると、悩んじゃうなぁ・・・」とか、
「なるほど、そういう考え方もあるのか・・・」といろいろ考え、
 思考の迷宮にはまってしまうこと自体に、いくばくかの意味や価値があるのかもしれない。


 とはいえ、四六時中そんな問題に向き合ってはいられないので、
 三年に一度くらいなら、哲学的迷宮に迷い込み、結局答えの出ないまま、
 またいつもの日常に戻っていくのもいいかもしれない。

 何も変わらないかもしれないし、何かが変わるかもしれない。

 まあでも、哲学って、そんなもんでしょ?