空前の『ひと駅ハンバーガーブーム』がやってきた。
やり方はいたって簡単だ。まずはファストフード店へ行って、ハンバーガーを買う。種類はなんでもいいが、あまり凝ったハンバーガーでないほうがいいだろう。
その際、飲み物を買うかどうかは自由だが、『ひと駅ハンバーガー』には直接必要ない。
そして、そのハンバーガーを持って、電車に乗り込む。車内での位置に決まりはないが、ドア際に立つことが好ましい。
ドアが閉まり、電車が動き出したら、周囲のことなどまったく気にせずに、思いっきりハンバーガーを食べる。
都市部の電車ならひと駅はだいたい2分か、3分なので、その間にハンバーガーを食べ終えなければならないが、といって、あまり早く食べ終わってもいけない。ちょうどいい頃合いに最後のひと口を飲み込んで、次の駅で降りる。
それが『ひと駅ハンバーガー』だ。
しかし、それだけのことであればブームになったりはしない。
ブームを呼んだ本当の理由は『ひと駅ハンバーガー』には不思議な力があると言われ始めたからだ。
『ひと駅ハンバーガー』に成功すると、悲しいことを忘れることができる。
どこが発端で、どういう経緯でそんな話が広まったのかはわからないし、普通に考えれば、そんなことをまともに信じる人はいないだろう。
だが、信じるかどうかは別としても、実践してみる人はいる。
そうやって一人また一人と『ひと駅ハンバーガー』に挑戦する人が現れ、雑誌やインターネットにその体験談が載せられるようになった。
失恋の傷が癒えた、ペットとの死別を乗り越えた、単身赴任をしている淋しさが紛れたなど、その数は日を追うごとに増えていった。
最近では、持病の腰痛が治った、嫁姑問題が解消された、引きこもりの息子が学校へ行くようになったなんて報告も寄せられている。
ある日のこと、私が駅のホームで電車を待っていると、ハンバーガーを手にした一人の女性に遭遇した。
間違いない。
彼女の思い詰めた表情を見れば、『ひと駅ハンバーガー』の挑戦者であることはすぐにわかった。
しばらくして電車がホームに到着すると、彼女はハンバーガーの入った紙袋をギュッと握りしめ、強ばった表情のまま乗り込んだ。
私は隣のドアから電車に乗り込み、そっと彼女の様子を窺った。
『ひと駅ハンバーガー』は電車の扉が閉まり、動き出した瞬間から始まる。
電車が動き出すまでのわずかな間、彼女は緊張の面持ちでまっすぐ前を見つめ、それをほぐすように深呼吸を繰り返している。まるで短距離走のスタート前のような緊張感が漂っている。
数秒後、じわりと電車が動き出した。
その時を逃さず、彼女はハンバーガーを食べはじめた。
ここからが戦いだ。
ひと駅の間に、完璧に、しかもぴったりと食べ終えなければならない。この区間の所要時間は約2分。女性にとってはギリギリの時間かもしれない。
それがわかっているからだろう。彼女は周囲のことなどお構いなしに、夢中でハンバーガーをほおばっている。
ところが、3口か、4口ほど食べたところで、彼女の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ始めた。食べ続けるのに支障を来すほどの大粒の涙だ。
彼女は慌ててハンカチを取り出し、涙を拭おうとするが、拭えば拭うほどとめどなく涙が溢れ、ついには食べるどころではなくなってしまった。
正直、私は気が気ではなかった。
急がないと次の駅に着いてしまう。
できることなら、涙を拭う役を私が担当して、彼女には食べることに専念させてやりたい。
しかし、そんなことをしたら、彼女が『ひと駅ハンバーガー』を達成したことにならないし、そもそもそんなことを言い出せるはずもない……
そんな逡巡をしているうちに、無情にも電車は次の駅に到着してしまった。電車は完全に停止し、あっさりと扉が開いた。
ゲームオーバー。
挑戦は失敗に終わり、そのまま彼女は電車を降りた。
そこは私が本来降りるべき駅ではなかったが、好奇心とほんの少しの責任感に駆られ、私も一緒に電車を降りた。
ホームに降り立った後、彼女はしばらく泣き続けていた。
右手には食べかけのハンバーガー、左手には紙袋とハンカチ。ホームに設置されている案内板にもたれかかるようにして、彼女は流れる涙を拭おうともせず、さめざめと泣き続けた。
どのくらいの時間が経過しただろうか。
ひとしきり泣いた後、彼女は食べかけのハンバーガーを紙袋にしまい、そのまま近くのゴミ箱に捨てた。
そして、涙の跡を簡単にハンカチで拭うと、しっかりとした足取りで駅の階段を降りていった。
彼女は、忘れたいことを少しでも忘れることができただろうか。
いずれにしても『ひと駅ハンバーガー』ブームももうすぐ終わるだろう。こんなバカげたブームがいつまでも続くはずがない。
私はホームのベンチに座り、何もかも終わってしまえばいいと思った。
